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歴史と善悪 [歴史全般]

 「南京大虐殺はなかった」とか「満州国は中国のため」とか、復古調の右翼的論調がかなり蔓延している。このような人たちはいくら事実を突きつけられても見ようとはせず、「正義の日本人がそんなことをするはずが無い」とひたすら信じるのみだから、まともな論争にもならない。バブル崩壊後に落ち目となった日本の国力に落胆し、昔の夢を追いたい気持ちの現れであろう。あせりからくる右傾化現象と言える。

中には一応、論を立てる人もあるが、このたぐいの論者に共通して言えることは、判断の基準を失い「善悪」を単純に「強弱」に置き換えてしまうことである。歴史を表層で見てしまうと「勝てば官軍」としか考えられない。家康にしろ秀吉にしろ、どのような姑息な手段を使っても、政権を取ってしまえば、建国の功労者で有り、英雄と評価されるのが常である。政権獲得を争いとしか見ず、社会の発展からの必然性に目を向けなければ確かにそう見える。とどのつまりは15年戦争で日本が「悪」とされるのは戦争に負けたからだと、本気で考えてしまうのだ。

 大虐殺をやったのは日本ばかりではない、アレキサンダー大王の遠征は大虐殺の連続だった。中国との戦争はお互い様だ。フビライの遠征軍が博多湾に攻め入ったのは高々800年前のことだし、第二次世界大戦の連合国だって、植民地を持っていた。だから、日本のアジア侵略は、特段非難されるべきことではない。............と、いうわけだ。

 歴史に善悪を考える時、重要なことは人類の進歩という概念である。 昔、腕力の強い者が王と称して、他人から税を取り立ててもなんら不思議はなかったが、今それを行えば強盗でしかない。古代に奴隷制はあたりまえであったが、今それを行えば、気違い沙汰だろう。人類は進歩しているのである。こうした人類の進歩に追いつけず、古い倫理基準に固執していることが、歴史において悪と非難されるものなのだ。

 過去においては阿片貿易も「正当な商行為」として認められていたが、今ならだれしも悪と判定を下すだろう。空を覆う煤煙は頼もしい工業近代化の象徴であったが、今では公害の元凶とされる。善悪の基準は変化しているが、これは、ご都合主義でころころと評価が変わるといったことではない。人類がそれだけ進歩した結果として、高い倫理性が要求されてきたのである。現在「正当な商行為」として許されている武器の輸出や、開発途上国に飢餓をもたらすかもしれぬ食料の大量輸入も、人類社会が発展すれば極悪非道の非難を受ける日が来るだろう。

 第一次世界大戦が帝国主義諸国間の争いでしかなかったのに対して、第二次世界大戦では、連合国に「露骨な侵略主義」と闘う倫理上の優位性があったことを否めない。後発の日本は、人類の趨勢がすでに露骨な侵略を認めない段階に達していたのに、まだ19世紀的な侵略を押し進めたのだ。戦争の現場でも、人類の進歩に対する感性がなかった。古代の戦争では当たり前であった「強制連行」や「従軍慰安婦の徴発」等も、人類がもはやそのような蛮行を許さない段階に進歩した時点で行ったから非難されるのである。

 遅れて国際舞台に登場した日本は、西欧の古い基準に学び、新しい進歩を受け入れることに失敗した。民主主義の時代となっても、絶対主義天皇制を保持したままで、神の国としての使命を果たすべく戦争に邁進した。これを悪でないと考えるのは、やはり無理だ。だからこのような過去を悔後をもって振り返ることは自虐でもなんでもない。人類の進歩を見つめ、国のモラルを考えて行く上で必要なことなのである。しっかりと歴史を見つめ、日本国憲法で日本が獲得した倫理性の優位を失わず、人類の先進部分としての日本をぜひ築きたいものである。

戦争の歴史 [歴史全般]

歴史は言うまでもなく戦争だらけではあるが、いったいどのようにして戦争が生まれたのだろうか。ものごとには全て始まりと終わりがある。ならば戦争の存在が終わることはあるのだろうか。戦争が終わるとすればどのようになくなるのだろうか。戦争の歴史を少しつぶさに見てみよう。

もちろん戦争の始まりは喧嘩であっただろう。話は単純で腕力の強いものが勝つ。これが喧嘩の常識だ。しかし、単に自分の腕力だけに頼らず、助っ人をかき集めるというやからが現れると、当事者自身の腕力よりも、いかに多くの助っ人を用意できるかが喧嘩の決め手になった。喧嘩はだんだんと規模を拡大して行った。

槍や刀などの武器が発達すると、腕力というよりも、こうした武器の数、武器を使う人数が重要となり、ますます多くの人を巻き込んだ、大規模な喧嘩が行なわれるようになった。こうなると喧嘩には、政治的要素が入ってくる。喧嘩の首謀者には、多くを従わせる統率力、喧嘩の正義を確信させる弁舌のさわやかさが、重要になってくる。武器の使用により、争いには必ず死人がでることにもなった。こうして生まれた「政治と結びついた多くの死傷者を出す喧嘩」が戦争である。ただの大喧嘩ではない。

喧嘩の原因には様々なものがあった。宗教とか民族の対立は現代にも残された紛争の原因ではあるが、これを直ちに戦争に結びつけるのは早計である。仏教と神道のように共存できたものもあるし、多様な民族が交じり合って暮らしている例は多い。紛争の原因と戦争の発生は別物である。あらゆる利害の不一致が戦争の原因となった。

人類が一人一票などと言う決定方法を思いついたのは、まだずっと先のことである。古くは、相互に利害が異なる物事を決着するには、専ら神の御宣託が用いられていた。しかし、次第に変化が始まり、人類は物事を巫女の言葉よりも戦争で決着することを好むようになっていった。とりわけ、どちらに政治力があるかを如実に示すことが重要な、王位をめぐる争いには、戦争が有力な解決方法となった。社会の発展とともに戦争の規模は、どんどん大きくなっていった。

しかしながら、助っ人の数には実は限りがあった。大声で指揮しても、声の届く範囲は限られている。第一、助っ人を頼むといった戦争の準備にも話し合いが必要だった。オルグ活動、日頃からの付き合いには、もちろん限りがある。戦争の規模にはおのずと限りがあったため、日本では奈良・平安時代の戦争は言って見れば小競り合いの積み重ねであり、勝負がつくには長い年月がかかった。まだ戦争は万能ではなく、大化の改新のように、政治決着には、戦争よりもむしろテロが有効だったことも多い。

戦争の規模のさらなる拡大は、朝廷子飼いの武人では無く、新興勢力である武士によって行われた。御恩と奉公の主従関係でしっかりと結ばれた独特の倫理観を共有しており、理由を問わず主君の戦闘に無条件で参加するのであるから、オルグ活動に時間が要らない。こうして武士の登場により小競り合いの積み重ねではなく、一気に勝敗を決める大軍勢の「合戦」というものが可能になった。戦争は政治対立のさらに有効な決着方法となったのである。神様のお告げは完全に問題解決の手段からははずれた。

この時代に特徴的なことは、数ではなく、超人的な豪傑を獲得することが戦争の決め手であったことだ。豪傑を何人かで取り囲んでも、最初に踏み込んだ一人は必ず殺される。誰しも殺されたくないので踏み込まない。だから烏合の衆よりも強い一人の豪傑が有用だったのだ。豪傑としても、自分の戦闘ぶりを主君にしっかりと認識してもらう必要があったので、戦場では大声で名を名乗り一対一で対戦することが多かった。豪傑が倒されればあとは散を乱して逃げ出すと言う事が多かったようだ。

雑兵と呼ばれる狩り出された農民の役割は、戦闘よりも、むしろ武将のための馬の世話や食料、武器の運搬に終始していた。雑兵が武将を倒すと言うことはあまり無かった。装備が格段に違うし、食い物も違う。馬の後を追って戦場に走るだけでへとへとになるし、最初から戦意などないからだ。この時代の戦争は、武士たちの争いであり、もちろん、とばっちりを食うことはあったが、一般人は傍観者でも有り得た。

劉備も曹操も頼朝も、戦国の武将は全て豪傑を召抱えたがった。しかし、世界史的に見れば、こういった豪傑主義よりも、集団戦術のほうが強力であることは明らかだ。ローマでは、軽量で鋭い鉄製の武器が出来るようになる段階で、次第に集団戦法が生み出されるようになった。文化的にも文書指示が普及して、歩兵の集団訓練が出来たからだ。武器さえよければ特に超人である必要はない。ローマの歩兵軍団は、相手がどんな豪傑であろうとも長い槍で一気に集団でぶつかる戦術を取り、圧倒的な強さを見せた。

日本で最初に集団戦術を取り入れたのは、武田の騎馬隊であるとされているが、これは怪しい。世界では騎馬が戦力の決め手となったが、日本馬は背も低く蹄鉄も無かったし、舌鐙では戦闘的な乗廻しは難しい。むしろ騎馬の武将の指揮のもとに、歩兵が長槍を戦闘に突撃したと言うのが実際だろう。戦国時代の末になるとこのような集団戦術が徐々に普及した。徴兵された雑兵の活用であるが、まだ十分な威力を持つものではなかった。織田信長の強さは、雑兵の位置づけを変え、刈り集めの百姓動員ではなく、常備兵力として集団訓練したことによる。

集団戦術を決定的にしたのは鉄砲の登場であった。弾込めに時間がかかり、発射も不安定だったが、集団に組織すれば一斉射撃でどんな豪傑も殺傷することが出来た。当時の鉄砲の射程は数十メートルで弾込めに2,3分かかったので、例え三段撃ちを行ったとしても効果があったのは緒戦の一斉射撃だけであっただろう。しかしいきなり多数の武将を戦死させられては相手側の打撃は大きい。鉄砲の過多が戦争の勝敗を決めるようになっていった。こうなってくると鎧や兜は役に立たず、むしろ機敏な動きを妨げるだけのものとなる。豪傑の活躍する場も無くなってしまった。徴兵され戦争に巻き込まれる人は格段に増えた。

世界では鉄砲の発達とともにますます集団戦術が発達し、銃撃部隊が戦争の中心になり、戦争は政治問題の唯一の解決手段として定着した。戦勝国は賠償金を取り、領土・資源を獲得し、国民生活は豊かにもなった。国民戦争と言われる概念が生まれ、一般の人々も戦争に巻き込まれることになった。国民全体を動員することに成功したナポレオンの強さは、傭兵に頼る王国軍を圧倒した。政治はすなわち戦争であるという時代になったし、人々にとって戦争に参加することは生きた証であり、美徳とさえなった。正々堂々と戦って勝利することが正義とされたのである。市民生活においても決闘が紛争解決の正式手段とされた。しかし、日本では徳川300年の太平時代となり、さらなる戦争の発達は無かった。

幕末の戊辰戦争を経て、日本でも戦争の仕方は大きく変わり、西南戦争では徴兵された歩兵による銃撃戦が士族の抜刀隊を圧倒した。世界からは遅れたが、日本もたちまち戦争の世界に飛び込んで行き、一番遅くまで戦争の世界にしがみくことになった。時代は戦争万能の時代であり、物事を最終的に決着させるには戦争によるほかない。平和は戦争によってのみもたらされると多くの人が信じていた。

西洋諸国から学んだのは散兵狙撃と密集突撃の戦術である。特に後者は大日本帝国の殆ど唯一の戦術として用いられて行く。前方に展開する敵に対して、縦列のまま密集して一斉突撃する。もちろん、先頭の何人かは撃たれるが大部分は敵陣に踊りこむことが出来る。これには一種の心理戦が含まれ、勇敢に素早く進むほど損害は少なく、躊躇があるほど損害が大きくなる。突撃されて浮き足立てばもちろん命中率も下がるので、思い切って突撃すれば先頭にさえ被害が無いことも多かった。日清戦争は大日本帝国がこの突撃戦術に確信を持つ根拠になった。以来、帝国陸軍の根幹は戦争の技術ではなく「必勝の信念」に置かれるようになった。

鉄砲の出現で鎧兜が役に立たなくなったのと同様に、大砲の出現は城壁をも無用にした。やわらかい地面に穴を掘った塹壕のほうが砲撃から身を隠すには適することがわかった。塹壕陣地の登場である。日露戦争では機関銃が登場し、もはや歩兵の突撃では突破できないほどの速射が行われるようになった。日本軍は犠牲を増やすことでこれに対処し、多くの戦死者を出しながらかろうじて勝った。勝ったことで学ぶチャンスを逸してしまった。日露戦争を見学した欧米各国では早急に軍備を転換し、第一次世界大戦では塹壕を掘って縦深陣地を構築し、機関銃を装備してマジノ線など互いに突破できない防衛線を築いた。戦場はどちらも攻撃できない膠着状態を生じた。ものごとの決着をつける手段としての戦争は万能ではなくなって来たともいえる。防衛のための軍備という概念はこの時代の産物である。

この当時から、あまりにも多くの死傷者を出す戦争に対する疑念が起こって来た。もはや戦争の勝利が無条件の正義ではなくなってきた。理想論として戦争の廃絶が言われだし、パリ条約や国際連盟の結成が行われた。一方で、資本主義の発達により、植民地を獲得することが先進国の宿命であると考えられ、帝国主義国間の争いは、戦争によるほか解決の手段がないとも考えられるようになった。戦争が、政治問題の最終解決手段であるとの認識は依然として維持されたのであるから、平和は理想論に過ぎなかった。

第一次世界大戦で導入された塹壕陣地による防衛戦も突破できないわけではなく、迫撃砲による近接砲撃で機関銃座を一つ一つ潰して行き、最後に歩兵が突撃するという方法が有効だった。しかし、砲弾を大量消費する迫撃砲攻撃は補給が大問題で、兵站を無視した日本軍では十分に行われず、損害を無視した突撃が相変わらず繰り返された。もっと有効な戦術は戦車による制圧である。戦車による攻撃が登場すると、突破できない防衛線は無くなってしまった。戦争の仕方は、またもやすっかり変わってしまったのである。しかし日本は、旧態依然とした「必勝の信念」による突撃にたよるままだった。

野戦で戦車がいかに力を発揮するかは、ノモンハンでのソ連軍との衝突で惨々思い知らされたのだが、このことは終戦まで秘匿された。国家分裂状態の中国軍との戦闘では突撃戦術がまだ有効だったが、強国との戦争にそんなものが通じるわけがない。太平洋戦争でアメリカと日本の歩兵の激突は一回も無かった。ガダルカナルでは一方的に歩兵の突撃を繰り返したが、ただ戦死者を増やすばかりで何の成果もなかった。

さらに大きな変化をもたらしたのは、航空機の参入である。大量の航空機による戦闘部隊ができると、海戦でも陸戦でも航空機による攻撃が決め手となった。真珠湾で米空母を破壊できなかったことで、すでに日本海軍の敗北は決定的だった。航空機による都市空襲が行われるようになると、兵士たちだけでなく、一般市民にも被害を拡大し、多くの一般人が戦争で死亡するようになった。

陸上戦闘は、航空機と戦車で決着が着く時代になった。徹底した爆撃のあと、戦車に先導されて上陸する歩兵の役割は残敵掃討だけである。アメリカ軍にもパラオや硫黄島で戦死者が多数出ているが、これは指揮官の作戦ミスに過ぎない。残敵を過少評価して、戦車を十分配備せずに歩兵を上陸させてしまったのだ。戦車も航空機もない状態で、勝つ見込みもなく戦わされた日本軍兵士はまさに犬死であったが、アメリカ兵も死ななくて良い所で多く死んだことになる。これらの戦闘に学んで沖縄では十分な配備を行なったので、もはや米軍は上陸で大きな損失を出すこともなくなった。

このように歴史を一貫して戦争は進化してきた。逆に言えば、戦争は決して永久不変なものではなく、政治問題の解決手段として有効であったから、発達したものでしかないことがわかる。現代における戦争も、この観点で見直す必要がある。政治問題の解決手段として有効でなくなった時には、もはや戦争の必然性がなくなるのだ。

今の大国間の全面戦争では核ミサイルで全て決着が着く。しかし、核兵器の使用は世界の批判を浴びて政治的には損失が大きく、実際には使えない。政治的批判が大きく高まってしまえば政治目的は達成できないのだから、核兵器には政治問題の解決能力が無いのだ。それでは通常兵器のミサイルが有効であるかというと、そうでもない。高度に発達したミサイルは、標的よりも値段が高いと言う矛盾に突きあたる。戦争は大きな転換点に行き着いた。

航空機とミサイルで全て決着がつく時代の戦争というものは余りに戦費が高くつく。ミサイルや核兵器などは維持管理だけでも、とんでもない財政負担になる。戦争は武器の発達を促し、武器の発達とともにその規模を拡大してきた。その武器が、実際には使えないほど発達してしまったということだ。戦争への参加範囲も拡大し、一般市民を必ず巻き込むので、周到な世論誘導がなければ、戦争を始められない。これもたやすくは無い。

日本は日清戦争で戦費をはるかに上回る賠償金をせしめて、それが製鉄所建設などの工業化の源泉になったのだが、戦費を上回るような賠償金を取るなどということは、もはや出来ない。戦争は、勝っても負けても大きな負担になることが明らかになった。徴兵も容易でなくなり、戦死者家族に対する補償なども大きな財政負担になる。多くの問題を一挙に解決する手段として際立っていた戦争の有効性は失われてしまった。戦争には、政治問題の解決手段としての能力がなくなったのである。

この70年、大国どうしの全面戦争は一度も起きていない。もちろん地域紛争のようなものは続いているが、雌雄を決する対決は無かった。戦争を始めるより、なんとか折り合いをつけたほうが安上がりに決まっているからだ。弱小国への侵略でさえ、結局採算が合わずにアメリカはベトナムから撤退した。大国による小国支配は残っているが、採算性が高い、巧妙な方法に転換している。多国籍企業による資本提携やマスコミ支配といったやり方だ。

こう考えると、今各国にある軍備は実は無駄なものであることがわかる。イラクやアフガニスタンで武力は使われているが、問題をこじらせるだけで、政治問題の解決には何等役に立っていない。各国が実際には役に立たない軍備に多額の予算をつぎ込むのは愚の骨頂であり、軍事産業に対する奉仕でしかない。戦争の歴史は、もはや終わったのである。

日本国憲法が戦争を放棄しているのは、決して理想論だけから来るものではない。現実的に歴史的役割を終えた戦争を見放したのである。宗教や民族の対立は依然としてあるが、戦争でそれらが解決するとは誰も思わないだろう。資源が全くない日本にだれが攻め込むものか。日本が資源国に攻め込んだとしても、代償があまりにも大きく、それに見合う利益が得られるはずもない。

しかし、戦争で利益を得る人と犠牲を払う人が別であることから、戦争の危険は全く無くなったわけではない。戦争で利益を得る人が突っ走ることはできる。それでも、多くの人々を戦争に引きずり込むことは、難しくなって来ている。日本国憲法の下で、遅々とした発展ではあるが、人々の意識は高まり、たやすく命を投げ出さないようになって来てはいるからだ。

戦争の現実が見えず、まともな判断ができないバカだけが戦争を煽るが、やがて人類がそれを見破ることは確実である。日本国憲法の先見性は、改めて評価されるだろう。

地方の時代はやってくるのか? [歴史全般]

「地方の時代」などと言う言葉がt使われ一時はブームにもなった。しかし、いまだにそのような時代の片鱗もない。過疎の村々は年寄りしかいないし、鉄道もどんどん地方は廃線になっている。TPPで農業が壊滅すれば地方が滅びる時代にすらなりかねない。「地方の時代」という言葉は単なる願望によるものでしかないかのように思われる。

昔に遡って「地方の時代」考証してみよう。日本の古代はもちろん地方の時代だった。大和政権が国中を制覇しても、地方は半独立で独自に運営されていた。それは通信手段が未発達なためのやむを得ぬ状況としての「地方の時代」であった。文字文化が普及し、律令が整うと次第に中央集権化されて、隅々まで統治が行き届くようになった。奈良時代には公地公民で完璧な中央集権が達成されたことになっている。

これで「地方の時代」は終わったのかといえばそうではない。律令制度の結果、地方豪族は消滅し、租税は国庫に一元化され、地方自治は無く、5年ごとに交代で中央から派遣される国守が地方を治める、こうした役人はすべからく実力主義で科挙により選抜される。という筋書きではあったが、実際は違っていた。

中央集権は崩壊せざるを得ない弱点を持っている。人事は中央だから、真面目に5年も地方に行っておれば、政界から脱落してしまう。皆、代理者を派遣して自分は中央に残った。陰位ということで、高級官僚の子弟は家柄で試験に合格したから事実上の世襲制になってしまった。有力者は荘園と称する国税免除特区を手に入れるようになった。

権力は中央に集中しても土地は動かせない。中央集権のもとで、結局地方は荒れるに任された。中央集権では地方に散在する最も基本的な生産資産である「土地」を有効に使えないということだ。農民達は自らの安全を保つため自衛するようになり、都から零落してきた武人を頭に頂いて、独自の武士道イデオロギーで強固な結束を持つ集団を形成していった。これが武士の起こりだ。

鎌倉幕府は決定的な中央集権の崩壊を意味し、再び「地方の時代」となった。武士は地方に土着し、農業生産を指導した。経済は新たな発展を見た。発達の結果再び「地方の時代」になったのである。守護地頭は中央からの派遣ではなく、世襲制で、何代にもわたりその地方の発展と命運を共にした。これは地方の発展を促しはしたが、その権力の根源は中央の威光ではなく地方の実力と言うことにもなった。無秩序な地方の時代の欠点はここにある。実力で合い争う戦国時代になってしまった。

騒乱を経て結局落ち着いたところは江戸幕府という官僚化した武士による中央政府が地方を支配する幕藩体制であった。中央集権と地方分権の折衷であったと言える。民衆の統治は各藩それぞれに行われ藩札などの通貨発行権まで地方にあった。だから、江戸時代は今日から見ればやはり「地方の時代」だったとも考えられる。

再び中央集権が復活したのは明治の王政復古で、廃藩置県で幕藩体制は無くなってしまったし、地方の権限はごく限られたものになった。高等文官試験ということで科挙も復活した。知事は内務省からの派遣だったし、官吏も上部は中央からの派遣だった。地方自治なるものはもはや存在しなくなった。その一方で地方から上京した人材が文明開化を押し進め中央集権の集中力を発揮した。どの地方にも藩校や寺子屋が普及し、人材育成の体制があった。長い間地方に蓄えられたエネルギーが一気に集中した効果は大きい。

同様な現象は、ヨーロッパでも見られ、イタリアやプロシアは小国分立から統一国家の形成で急速な発展を果たした。アジアの朝鮮や中国では十分な封建制の発達がなく、古代の中央集権のまま来た。朝鮮などはソウルだけが都市であり地方都市の発達はないままであった。これが、近代化の速度が遅い原因であったと考えられる。日本の場合、長い封建制の「地方の時代」があったのからこそ急速な近代化を達成できたのだ。

明治の中央集権化は徹底したものだったが、それでも徳川300年で形成された「地方」は健在であった。もちろん、土地所有権の流動化が小作と不在地主を生み出し、地主の資本蓄積が都市の工業を興したのではあるが経済のバックボーンは依然として農業だったからだ。農業は土地に硬く結びついており動かすことができない。これが中央への経済の吸い取りを防いでいた。

中央集権による集中力の発揮は瞬発的なもので長続きはしない。中央集権が進むと、地方は荒れる。工業化が進んでしまった今では、過度な中央集権のもとで、地方の衰退が進んでいる。農業の没落で地方経済は沈滞し、文化的にも地盤沈下が進んでいる。例えば東大入学者の三分の一は東京圏であり、地方からの入学は人口比を考慮してもかなり少ない。人材供給源としての地方も成り立たなくなってきているのだ。


戦後、新憲法の下で地方自治が導入された。これは再び地方の時代を形成する機会ではあったし、工業化された時代にこそ地方の住人が自らの身を守るための自治が必要だったのだが、その意味は理解されないままに年月が経過した。自治体は補助金に釣られて年とともに中央政府の下請け機関化し、憲法が求めた地方自治は失われていった。農業の衰退が地方を決定的な衰退に落とし込んだ。


それでは再び地方の時代がやってくるだろうか?もはや農業を基盤とすることはないから土地の必要性は薄い。もし、地方の時代が来るとすれば、それは距離が意味を成さなくなるときだろう。ITの発達で、人々が、ネットワーク経由で仕事をするのが当たり前になれば、東京からの距離は関係がない。毎日出勤するのではなく、在宅勤務なら景色がよい、空気の綺麗な所に住みたいだろう。国会がネット上で運営されるならば議員はだれも地元を離れない。自然と権力は地方に分散される。会社の本社も特に所在地がなくともネットワーク上にあればよいことになる。

風景や空気・環境が生産に欠かすことのできない大きな資産と考えられるようになれば再び地方の時代がやってくる。案外、そんな日は遠くないのかも知れない。それまでは、中央集権のために地方は浮かび上がれず、バックボーンを失った日本全体がたそがれて行くのも仕方がないことだろう。
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