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降伏しなかった日本兵 [歴史への旅・明治以後]

8月15日に日本が降伏して第二次世界大戦は終わったとされているが、兵士たちにとって実際に15日で終わったわけではなかった。軍隊組織は温存されており、上官の命令に従わされる状態は続いた。だから中国では多くの日本兵が終戦後も八路軍と戦わされた。南方でもアメリカ軍の捕虜とならず戦い続けさせられた兵士はたくさんいた。15日以後に出撃した特攻隊もあった。兵士にとって終戦は単純なものではなかったのである。

南方戦線のように組織が壊滅したような所でも、投降するのは簡単ではない。いきり立ったゲリラ兵が米軍の制止も聞かず投降者を撃ち殺す事例はいくつもあった。日本軍は手を上げて出てきた敵兵を平気で射殺していた。『生きて虜囚の辱を受けず』という先陣訓は捕虜の扱いの常識となっていた。敵前逃亡として日本軍から撃たれることもある。投降するには相当な決心が要ったのである。

1960年になって、終戦を知らずに隠れていた日本兵が見つかり大きな話題になった。皆川文蔵さんと伊藤正さんはグアム島で15年間の逃亡生活を続けていた。1972年には横井庄一さんが28年目に発見され大いに驚かれた。これらの人々は、人目を避けて密林に隠れていた。終戦に確信が持てなかったし、投降する勇気を出すことも出来なかったのである。

横井さんの「恥ずかしながら戻ってまいりました」という言葉に象徴されるように、密林に隠れていたことを恥とする気持ちが残っていた。的確な情報分析が出来なかったことの現れでもあり、優柔不断だったことを示しているからだ。それでも、こういった人たちの逆境で生きようとする力、そのための創意工夫にはむしろ感銘を受けた人が多かったと思う。馬鹿馬鹿しい戦争に動員され戦後も隠れ続けていたことへの同情もあった。

さらに遅くまで密林から出てこなかったのは30年後に現れた小野田寛郎さんである。しかし、小野田さんの場合は、これまでの人たちとは扱いが違った。任務に忠実を貫き30年間闘い続けた英雄的な軍人という受け止め方だ。当時始まっていた戦争を正当化する右傾化の風潮に合致したからでもあるが、異常な持ちあげられ方をされていた印象がある。密林に隠れ、米軍との戦いを続けていたわけではないのに「戦い続けた」はないだろう。

終戦後もなぜ降伏しなかったのか。小野田さんの手記によれば、残置諜者として遊撃戦指揮の任務を与えられたから、あくまでもゲリラ戦を継続したのだという。第八師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。」と言われたそうだ。

しかし、この話はどうもおかしい。戦況劣勢で玉砕覚悟の戦闘を鼓舞する立場の当時の師団長が「玉砕は許さん」などと言うものだろうか。小野田さんは陸軍中野学校を出ていることが強調されるが、実は非常に特殊なスパイ組織といったものではない。情報科は幹候の兵科の一つであり、普通に各部隊に配属されて情報収集を担当する。小野田さんはフィリピンに着任したばかりで、まだ将校に任官もしていない。兵隊としての身分は曹長だ。陸軍中将の師団長が一兵卒と直接面談したりするはずがないではないか。

ゲリラ戦を展開するためなら、別の所に派遣するだろう。ルパング島のような末端の小島にゲリラ戦を継続する戦略価値があるとは考えられない。だから「遊撃指揮の任務」は疑わしい。小野田さんの他にフィリピン派遣軍で「遊撃指揮の任務」を与えられたなどと言う人はだれもいない。ゲリラ戦を展開する命令を受けたと言うのはおそらくウソである。

情報将校は師団司令部から各部隊に派遣される。第八師団はマニラ北東部を担当していたが、配下の独立歩兵第359大隊は第二中隊をマニラ湾の入口にあるミンドロ島に派遣した。ミンドロ島中隊は第二小隊を周辺にある小さな島ルバング島に警備隊として配置した。駆け出しの情報将校に大きな任務を与えたリしない。小野田さんは出先のそのまた出先の警備隊に配属されたのである。ルパング島に派遣された情報将校の任務としてはマニラ湾に襲来する敵の動向を伝えることくらいだ。

ルバング島には歩兵第二小隊(約50名)の他に飛行場隊、航空情報隊がいたがいずれも上級指揮官がいない小部隊だ。小隊長は早川茂紀少尉である。小野田さんが少尉になって1ヶ月、2月28日から米軍の攻撃が始まった。3月1日には米21連隊第1大隊が全く抵抗を受けず無血上陸している。

小野田さんは3月2日に15名の部下とともに上陸米軍に夜襲を試みたが、米軍は一旦海岸線に後退していたので戦闘にはならなかったと言う。3月3日に偵察に出かけたが日暮れで谷底に閉じ込められ、翌日戻った時には早川小隊は壊滅していた。これも怪しい。二人しかいない少尉は指揮官としての任務があり、偵察に出かけたりしないはずだ。米軍は海岸線にいるのだ。どうして谷間に閉じ込められる事態になるのか。

本隊は壊滅しても、手勢を集めて執拗に攻撃するのが日本軍の筋だった。しかし、小野田さんたちは山に籠ったままで、出撃していない。ルバング島では3月4日以後、まったく戦闘はなく、早くも3月19日には米軍に移動命令が出て3月末にはフィリピン人に島をまかせて出て行ってしまった。ゲリラ戦どころか、結局一度も米軍とは戦っていない。戦後ルバング島には港湾とレーダー基地が作られたが、小野田さんは山岳地帯にいてこれには近づいていないから情報収集もやっていないことになる。

終戦直後の帰投勧告で9人が投降、翌年2月に2名、4月に31名が投降した。小野田さんたちは終戦を信じず戦い続けたと言うが、終戦を知らなかったわけではない。4人は最初から孤立していたのではなく、他の兵士たちとの連絡もあった。ではなぜ投降しなかったかと言うと、おそらく戦犯訴追を恐れたのだ。フィリピンでは住民の虐待、略奪が盛んに行われた。投降した兵士も何百人もが戦犯に問われることになった。投降すれば無事に日本に帰れるわけではなかったのである。

略奪や住民虐待、慰安婦強制などに対する罪悪感を持たせない軍隊教育の異常さが問われるのだが、命を捧げる覚悟の皇軍兵士には略奪も強姦も許されるという考え方は日本軍のには一般的だった。現地では多くの兵士が平然と徴発や虐待使役にかかわった。ルバング島に食料の補給などなかったから、日本軍はすべて住民から強奪していたのである。

住民虐待に関して、身に覚えがあると簡単には投降できない、早川小隊の赤津勇一一等兵、島田庄一伍長、小塚金七上等兵が投降の機会を逃し、指揮命令系統にはないのだが少尉である小野田さんがリーダーになった。横井さんたちとの違いは、自給自足ではなく武装して住民から略奪を続けてていたことだ。小野田さんたちが戦った相手は米軍ではなく住民だったのである。

戦後も略奪を続けたから、当然住民の自警を恐れなければならなくなった。閉鎖的な集団を私的に形成していたようにも思われる。赤津さんへの「いじめ」もあり、離脱しようとした赤津さんを何度も連れ戻したりしている。四人は住民から奪い、報復が怖くて隠れていた。住民をドンコー(土人野郎)と呼んで蔑視していたといい、住民を襲うことに罪悪感がなかったようだ。それが帝国陸軍の常態ではあった。小野田さんたちに殺された住民は30人にものぼるというから驚く。

島田さんと小塚さんはフィリピン軍の討伐隊と戦って死んだといっているが、フィリピン軍が討伐隊を出したことは一度もない。ルバング島で演習をした時にいきなり撃たれて応戦しただけの事らしい。小野田さんたちが討伐隊だと勘違いしたのだ。強盗・殺人は兵士であろうと許されるものではない。討伐されるだけのことはやっていたからだ。

人間は元来保守的な生き物だ。略奪で食物を奪い、密林で野宿する。そんな毎日を続けていると、それに慣れてきてそこに安住してしまう。横井さんのように栄養失調になったりせず血色も良かった。生活のパターンを崩せず、さらさらと水が流れるように30年間が過ぎて行ったのではないだろうか。途中でグループを抜けた赤津さんへの憎悪の激しさも、こうした日常からの離別に対する抵抗から来るものだ。

小野田さんたちがルバング島に潜んでいることは、発見の何年も前から話題になっていた。臆を超える多大な予算を組んで日本から捜索隊が送られた。マスコミの報道は完全に先走っていた。小野田さんが出てこないのは命令に忠実だからだという憶測で全ての記事が書かれるようになった。どうもこれは外務省に誘導されたものらしい。小野田さんの発見は戦後の総決算という意味合いが込められ出したのだ。マルコス政権と日本外務省の間で戦後補償の落としどころが模索されていた。

捜索隊の呼びかけに答えなかったことに対して、上司の命令がいるのではないかといった事が新聞記事で言われ、第八師団情報部の谷口義美元少佐が捜索隊に加わったりした。しかし小野田さんは谷口少佐の部下ではなく面識もほとんどないはずだ。小野田さんの上司は第二中隊長の塩野中尉だし、その上は大隊長大藪富雄少佐のはずだから谷口さんは直属の上司でも何でもない。

小野田さんは終戦は信じなかったと繰り返している。しかし、作家の山田順さんが少年時代に風呂で背中を流しながら尋ねた時には、終戦を知っていたと答えている。たぶん知っていただろう。島民から強奪したのは食料だけではない。トランジスタラジオを手に入れて、日本のニュースは全部知っていた。新聞を読んで日本でオリンピックがあったことも、万国博のことも知っていた。

小塚さんが死んで以来、現実世界への復帰を考えるようになった。情勢の変化にともない、戦犯訴追を受けずに帰国できる可能性を感じたのだ。当時のフィリピンはマルコスの独裁政権で、日本からの円借款で経済を立ち上げようとしていた。どうしても日比友好を謳わねばならなかった。上からの命令にあくまでも忠実は独裁政権の求める人間像でもあった。マルコスは一切の罪を免除すると声明した。もちろんその陰には日本外務省との裏交渉がある。この情報が小野田さんが出てくるきっかけになったのは言うまでもない。

小野田帰還には多くの演出がある。良く知られている小野田さん発見当時の敬礼写真などは、当日の写真が失敗で、翌日もう一度軍服を着て撮り直したものだ。横井さんの復帰も知っていたから、そのやり方も十分に検討したものだとうかがえる。谷口元少佐からの命令伝達を要求したのも新聞記事がヒントになったからだ。谷口さんは捜索隊の一員として新聞にも名前がでていて小野田さんはこれを知っていた。

しかし、この演出は小野田さんが一人で考えたものではない。帰国後4か月で手記を書いているが、もちろん30年も文字を書いていない人にそんなことができるはずがない。ゴーストライターがいたことは公然の秘密だ。その二ヶ月後にはブラジルに移住した。手記の内容には数々の矛盾があったが、これでそれを追及されることが無くなった。一連の動きを誰かが仕組んだ事は間違いがない。

小野田さんの利用は計画されたものだ。後年、再び帰国した時には日本会議に参加し、「従軍慰安婦はいなかった」「慰安所は饅頭を食べさせるところだと思っていた」などと白々しいウソを発言している。帰国前後にはすでにつながりが出来テいたことがわかる。「残置諜者」、「命令に忠実な兵士」などは、実はマルコスと日本政府・右派勢力が作り上げた虚構のストーリーなのである。
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明智光秀の黒幕 [歴史への旅・武士の時代]

本能寺の変・明智光秀謀反の理由についてはいくつもの説がある。古くからあるのは遺恨説で、長曾我部問題での精神圧迫も理由に挙げられることが多い。しかしこれで光秀が自暴自棄になってしまったとするのには無理がある。一万五千の軍勢はノイローゼ状態で動かせるものではない。事実、天王山でも光秀軍は統率よく戦っている。明智は確信に基づいた戦闘を繰り広げているのだ。

明智光秀も優れた武将であったが、織田の家臣全てを敵に回して勝てるほど自分が強力だと思ってはいなかっただろう。どこかにより所があったはずだ。明智光秀には黒幕がいたことになる。黒幕についても諸説あり、毛利に保護されていた足利将軍という説もあるが、毛利との連携が全く出来ていないところからも、これは違うし、もともと光秀には将軍義昭を見限って信長についたという経緯がある。最終的な利を得た豊臣秀吉や徳川家康を挙げる人もいる。しかし、こういった人たちに騙されたのならば、当然、光秀は戦いの中で事実を暴露するはずだ。この黒幕は光秀に約束事を暴露されない、あるいは確約をしないことが当たり前とされているものでなければならない。それは天皇をおいて他にない。

光秀の言葉として伝えられているものに『武士の嘘を武略と言い、仏の嘘を方便と言う。土民百姓はかわゆきことなり』 と言うのがあるが、うまく騙せば行政なんて楽なものととれる。力づくで押さえるよりも、うまく騙すことが行政のコツであるのは今も昔も変わらない。教養人としても知られる光秀は強いもの勝ちで済ませるタイプではなく、騙してでも、なんとか理屈づけすることを重視する人間だったことがわかる。

理屈人間である明智光秀が、反信長で決起するにはそれ相応の大義名分が必要だ。主君に対する謀反という封建道徳を上回る大義名分を与えることができる黒幕は誰だろうか。それは天皇をおいて他にない。天皇を味方につければ、朝臣光秀が逆賊信長を討ち取ったという構図を描けるのだ。

織田信長と正親町天皇の確執を示す文献はないが、歴代天皇というものは決して実力者との確執を表に出さないものだ。確かに信長は初期に天皇を擁護する立場を取った。それは足利将軍家にも言えることだ。信長は当初、将軍家を補佐したがその無能振りにあいそをつかした。天皇家も保護する姿勢を見せたが、実力で将軍を排除したら、すぐに擦り寄ってきた天皇にもやはりあいそをつかしたのである。浅井朝倉攻めの時には天皇を擁する大義名分を利用したが、後年には摂政、関白その他の位階を全て断った。

なぜ、位階を断るようになったのか。それは単に敵対する武将との抗争に明け暮れる立場から天下国家を統治する立場への進化である。誰の家臣にもなったことがなく、実力だけで運命を切り開いてきた信長に天皇の権威による正当化などいらない。鉄砲やキリスト教も取り入れ、楽市楽座などの旧弊を打ち壊す政策を次々に実行する信長には、もはや天皇の権威など噴飯物でしかなかった。もともと信長は徹底した合理主義者だった。父親の葬儀に灰をぶちまけた逸話もあるくらいで宗教や伝統にはとらわれないのだ。天皇はもはや確執を持つ相手ですらない、どうでも良い存在になっていた。

これは天皇にとって最悪の事態だ。源頼朝も天皇の権威に逆らい、政治の実権をわがものにしたが、征夷大将軍を受けることで一応天皇は面子を保った。足利も天皇をないがしろにはしたが、位階だけはありがたがったから天皇に任命されたという形式になった。しかし、信長は位階など眼中になかった。無階の信長が天下を治めるのでは天皇は全く無視されたことになり、天皇制の存続すらあやうい。誰でも良いが、信長だけは困る。これが天皇の本音だっただろう。天皇には動機がある。天皇は光秀に決起を促したに違いない。

正親町天皇は、変の後のわずか7日間に3度も勅使を派遣している。『明智光秀公家譜覚書』によると、変後の時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたという。真偽のほどはわからないが、なんらかの内示があったに違いない。少なくとも十分期待はさせた。

光秀も、天皇の権威があれば多くの武将を従わせることが出来ると考えた。信長を討ち取ったあと二条城にいた長男の信忠も討ち取っているが、信忠はかなりの軍勢をもっていた。それが、あっけなく討ち取られているのは、都の情勢としては天皇と組んだ光秀が正統派になったという認識が支配していたからだ。信忠の軍勢は四散してしまい、光秀に対抗することもできなかった。光秀が単なる反乱軍なら信忠の正規軍が動揺するようなことはない。

毛利との戦闘の真っ最中で、羽柴秀吉もそう簡単には戻ってこれないし、その間に自分が補佐役になって天皇親政の体制を整えてしまえば、徳川や毛利も有力だから、簡単に羽柴秀吉に天下が転げるわけがない。三すくみ四すくみの状態が続くはずと踏んでいたのだ。天皇の権威のもとにかなりの武将を従えておけば、いずれ羽柴、毛利、徳川のいずれかが自分に擦りよってくるだろうと考えたのも当然だ。

ところが、秀吉の転進はなんとも素早いものだった。わずか3日でとって返し、天王山の戦いになった。主君のあだ討ちと言う事で全軍を指揮する実績を作ってしまった。中国大返しを知った天皇は、勿論明智光秀を冷たくあしらった。秀吉に擦寄り、摂政関白太政大臣全部位階を授けてしまった。何のことはない光秀の挙兵は秀吉に天下を取らせるためにやったようなものだ。光秀は天皇に騙されたことになる。

天皇は、光秀への勅使に関して、勅使として派遣されたのは吉田神社の神官であるから正式ではないと言い訳をしている。それが言い訳にすぎず、本能寺の黒幕が天皇であったことは秀吉にも察しがついただろう。秀吉はこれを公には深く追求せず、むしろ蔭でそれを逆用した。借りの出来た天皇はもはや秀吉のいいなりであった。信長と異なり、秀吉は織田家の家臣として引き立てられて出世したのだ。忠誠を尽くすべき織田家を乗り越えて自分が天下を取るためには天皇の権威が必要だったのである。そして、そのことで天皇家もまた安泰になった。

秀吉は光秀の挙兵を遺恨によるものだという説を積極的に広め、これが太閤記などで浸透した。こうして本能寺の変の真実は解明されることなく歴史に埋もれたのであり、今日、光秀の挙動が謎として残された所以でもある。