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謎の4世紀を考えるーー騎馬民族の侵攻 [歴史への旅・古代]

歴史における日本の記録は、漢書東夷傳のAD57年にさかのぼることができる。九州北部に原初的な国が生まれ、それが発展して行ったことが魏志倭人伝で確認される。これらの国が海峡をまたいだ海峡国家であったことはすでに述べた。238年には邪馬台国の卑弥呼の記録がある。しかし、その後については手掛かりがなく、413年に倭王賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいるのだ。空白となる4世紀に日本では極めて重大な変化があった。

すなわち、あれほど盛んに作られた銅鐸が突如としてなくなり、変わって巨大な古墳が出現する。それまであった周溝墓のように穴を掘って埋めるのではなく、高く盛り上げた山に横から入れるという異なる発想のものだ。古墳の副葬品は、それ以前には見られない馬具が増え、金冠など騎馬民族好みのものもあらわれる。宗教も文化もまったく違うことになったということだ。この大きな変化がどのようにして起こったかが4世紀の空白に隠されている。

4世紀が空白になったのは、三国時代を統一した晋が崩壊して以来、漢民族の王朝が南に後退し、華北は五胡十六国と言われる遊牧民族の支配するところとなってしまったからだ。4世紀は世界的な民族移動の時期である。ヨーロッパでもゲルマン民族の大移動があった。ゲルマン民族はヨーロッパ各地に侵入し、古代秩序を壊していくつもの国が生まれた。アジアでは匈奴・鮮卑に押された扶余族が朝鮮半島に南下していく大移動があった。

中国では匈奴、鮮卑といった胡族の侵入が古くからの問題で、秦の始皇帝はそのために万里の長城を作った。しかし、歴代王朝は遊牧民を排撃したばかりではなかった。遊牧民は機動性があり戦闘にはめっぽう強い。三国時代には強い兵士を求めて対立する各国は、積極的に遊牧民を招き入れもしたのだ。その結果、華北に入りこんだ騎馬民族が農耕民族を従える形で国を興すことになった。五胡十六国は、いわば軒先を貸して母屋を取られたようなものだ。

朝鮮半島から日本への民族の流れは、こういった4世紀の民族移動のもっと前から継続していた。気候が温暖で水が豊富な日本は農耕、取り分け米作に適している。江南から朝鮮半島に米作が伝わるとともに、それまでの粟、高粱といった作物から米作への転換が起こり、農耕に適した地を求めて海峡を渡ることが必然になった。朝鮮は米作には寒すぎる。最初に海を渡ったのは、朝鮮半島南岸にいた倭族であり、これが拘邪韓や邪馬台からなる海峡国家=倭国を形成した。

遅れて海を渡った韓族は、まだ倭族の支配が及んでいなかった辺境の地に進んで、ここに定住して弥生人と混血していった。出雲、大和といった地域だ。日本の金属文化はどこかに始まり、それが広がったのではなく、一斉に立ち上がっている。それはこうした辺境の地に韓族が入り込んでいったからである。日本ではすでに弥生時代の後期には稲作が始まっていたが、韓族が持ち込んだ金属器による優れた農耕で開拓が進み、とりわけ平地が多く水利の良い大和に大きな集落が生まれ出した。

大和や出雲に北九州を中心とする銅剣銅矛とは少し趣の異なる銅鐸文化が育っていったのはその担い手が異なったからだ。銅鐸の元になったとされる馬鐸は朝鮮でも倭族がいた南岸ではなく韓族がいた新羅地域に多く出土している。金属材料は中国から朝鮮を通して北九州さらに出雲・大和に米との交換で流通した。この銅鐸・銅矛共存の体制が4世紀まで続いていた。

4世紀の民族移動の影響は、朝鮮半島にも及んだ。ツングース系の騎馬民族である扶余が侵入し、戦闘力を買われて、支配者に重宝され、やがて支配者の地位を奪って行くということがここでも起こった。元来遊牧民は定住せず、狩猟を基本とした生活をしていたが、騎馬の機動性を用いて農耕民の村落を略奪するようになっていった。略奪を定期化して税と称して定住すれば、それで国家が成立する。

帯方郡を破壊して高句麗を打ち立て、太白山脈の東では新羅、西では百済といった国を作った。もちろん、半島南部の倭種地域にも侵入したが、海峡国家である倭の主部は北九州にあったから、そこにとどまらず海峡を渡った。

北九州にも騎馬民族文化の影響がみられる遺跡がある。しかし、日本で騎馬民族を積極的に受け入れたのは北九州の倭族ではなく、むしろ畿内の韓族・弥生人集団だ。蝦夷との抗争が避けられず騎馬民族の戦闘力が有用だったからだ。北九州には倭国の強固な基盤があったから、支配権を得にくかったから畿内に向かったのかもしれない。銅鐸文化を持った農耕民族に、騎馬民族的な活力を与えることで、古墳文化を生み出していった。それが瞬く間に日本全土に広がったのは騎馬民族の戦闘性にもあるが、やはり経済的には、鉄の生産にあっただろう。砂鉄から鉄器を作ることが始まりこれが、周りを圧倒して行った。

日本書紀にこういった騎馬民族侵入の片鱗を見るとすれば、それは応神朝になる。応神天皇は北九州に生まれ、畿内で実権を振るったが、両親と言われる仲哀天皇も神効皇后も実在性が薄い。日本書紀は応神天皇が西から騎馬民族を率いて大和にやってきた人物であることを物語っている。これは、神武東征のモデルとも重なる。ホムダワケから始まる河内のワケ王朝は何から別れたかと言えば、それは扶余族本流から別れ出たものと言うことになる。

鉄の国産化で朝鮮半島からの金属供給を軸にした小国家群の共存関係は崩れ、大和が強力になって行く。北九州の海峡国家の隆盛は、砂鉄による鉄の国産化が始まると共に、金属流通拠点の意味を失って衰退していかざるをえない。海峡をまたいだ交流は薄れ次第に朝鮮半島の倭族は日本から切り離されて行く事になる。任那・伽那はこういった人々が騎馬民族と混血して立てた国である。

ヤマト王権は、渡来した騎馬民族が土着の農耕民族を支配する形で生まれてきたのだから、扶余族系の政権だったことになる。機動性に富み、各地へ影響を広げていった。出雲や九州の国々も大和に従うようになっていったが、海峡国家の半島部分は、取り残された。

日本書紀は朝鮮半島を支配していたかのように書いているが、その実質は見えない。朝鮮はもはや外国ではあったが、大和政権にとっては出自の地であるから、こだわりだけが残っていたに過ぎない。はっきりと朝鮮が外国になるのは、新羅が唐と組んで任那地域をも含んだ支配を確立させた時からである。任那日本府の滅亡・白村江の敗戦と記録しているが、朝鮮半島南部にあった倭種的な国が消滅したと言う事である。
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