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アッツとキスカの占領と撤退 [歴史への旅・明治以後]

アッツとキスカはいずれもアリューシャン列島にあるアメリカの島だった。しかし、2600人が全滅したアッツと6500人が生還したキスカでは、戦争に狩り出された人たちの明暗を大きく分けることになった。

奪還を目指すアメリカ軍がせまる中、アッツからの援軍要請には答えず、食料・弾薬も送らず、全員が戦死することを命じたのだ。一切の援軍を求めることなく自ら徹底抗戦の道を選んだと報道されたが、もちろんウソである。これが「玉砕」という言葉の始まりだった。大本営はアッツを戦略的価値がなく犠牲を払ってまで占領し続けるにあたらずとして見捨てたのである。

キスカのほうは、脱出作戦が行われた。6500人という人数からも、貴重な航空兵が含まれていたこともあって脱出作戦を取らないわけには行かなかった。当初、潜水艦による輸送が試みられたが輸送量が小さく、艦船による強行輸送が試みられた、これが運良く深い霧に助けられて成功した。もぬけの殻を攻撃した米軍をあざ笑うような書置きを残していた。日本軍が撤退を恥としなかった例は珍しい。それだけ戦略的価値がないことが明らかだったのだ。

明暗は分かれたが、戦略上重視されなかった点は同じだ。では、なぜそんな所を占領したのかということになる。この二つの島は無人島であり、占領にも戦闘はなかった。爆撃を受けて、銃手は高射砲を撃ったが、ほとんどの歩兵は戦わずして引き揚げたことになる。いったい何のために占領したのだろうか。撤退作戦の幸運がなければキスカもアッツと同じように多数の玉砕となっていたことに間違いない。

アッツ、キスカの占領はミッドウエー海戦と同時に行われた。アメリカ側では、ミッドウエー襲撃のための陽動作戦だったと見ている。しかし、陽動作戦ならミッドウエー海戦終了と共にすぐ撤収するべきだった。そうすれば、撤退に苦労することもなく、ましてアッツを見殺しにする必要もなかったのである。事実、ミッドウエー海戦の敗北を知った山本五十六司令長官はアッツ・キスカ作戦の中止を命じている。ところが12時間後に命令は撤回され、アッツ・キスカを長期占領することになった。

これらの島は日本が占領している唯一のアメリカの領土になるから、アメリカ軍は奪回作戦を取らざるを得ない。しかし、日本にはそれに対する準備はなかった。島伝いにアメリカ本土に進撃するにはあまりにも米本土から遠い。作戦上、多くの兵力を投入する島ではないことが明らかだ。逆にアメリカ軍が基地を作っても、東京まで4000キロもあり、爆撃機の航続距離を超えていて攻撃には使えない。作戦上は双方にとって意味のない島なのだ。事実、アメリカは奪回後も島を爆撃基地として使ってはいない。

意味のないアッツ・キスカの占領がなぜ行われたというと、政治的に必要だったからである。ミッドウエー海戦の敗北は秘匿され、新聞発表は6日後に、アッツ・キスカの占領と同時に発表された。もちろんミッドウエー海戦は勝ったかのように報道されたのであるが、その詳細を見れば、4隻の空母を失い、日本軍の損失が大きいことは隠しようもない。アッツ・キスカの占領を抱き合わせなければ恰好が付かないのだ。アッツの2600人は、もうこの時点で、軍の面子のために命を捧げさせられることが決まっていたことになる。

軍は、本土への空襲を防ぐためにアッツ・キスカの占領が必要だったと位置付けているが、4000キロを往復できる爆撃機はない。その意味ではミッドウエーも同じことだ。日本からは遠く、アメリカ軍の本拠地であるハワイに近いミッドウエー島を占領しても、維持できないことは明らかだ。山本五十六はミッドウエーは、島の占領そのものが目的ではなく、占領することにより、出動してくる米国艦隊主力を撃滅することが目的であると主張した。確かに、米艦隊を撃滅してしまえばハワイだって占領できる。

実際には、ミッドウエー島を占領する前に、日本の連合艦隊は撃滅されてしまった。この時点ではまだ日米の戦力は互角だったから、地上軍を送り込む上陸作戦なのか、あるいは機動部隊による海戦なのかがはっきりしない中途半端な作戦であったことが敗因と言ってよい。

日本軍がミッドウエー島への攻撃に手間取っているうちにアメリカ空母の襲撃を受けた。航空母艦は防御が弱く、損傷を受けると航空機も使えなくなるから先手必勝である。攻撃を急ぎ、戦闘機の護衛もなく突っ込んでくるアメリカ軍の果敢な戦闘も想定外だっただろう。アメリカ軍は速攻の重要性をしっかり認識していたのだ。帝国海軍はアメリカ空母3隻のうち2隻には攻撃する事すらできず4隻の空母を失った。

問題はなぜこういった根本的とも言って良い作戦の誤りを犯したかということだ。敵空母だけでなく、地上航空基地からも攻撃を受ける場所で決戦を挑むのは不利に決まっている。ミッドウエー作戦は、司令部が行った事前の図上演習でも失敗と出てしまっている。にも拘わらす強行した理由が問われることになる。

多くの戦史家が過小評価して見逃してしまっているのは、ドゥリトル爆撃のインパクトである。開戦からわずか3ヶ月、真珠湾で米海軍を撃滅したはずなのに日本の都市が軒並み爆撃を受けたのである。被害は大きくないのだが、それは問題ではない。皇居がある帝都の爆撃を許してしまうなどということは、帝国軍人としてあり得ないことだ。近代兵器を駆使していても、当時の軍人の精神構造は前近代的な天皇崇拝のもとになり立っていたことを忘れてはならない。

対抗関係にあった陸軍からあざけられても仕方がない。予測外の奇襲だったため、日本列島を縦断されて一機も撃墜できなかったとなれば、軍の面目は丸つぶれと言っても良い。当時の報道の表には当然出てこないが、海軍の内部には、激烈な衝撃が走ったことに疑いはない。この衝撃は冷静な判断力を超えたものだったのである。

何が何でも爆撃を阻止しなくてはならない。しかし日本軍には、ドゥリトル爆撃隊がどこから来たのか皆目見当がつかなかった。SBDのような艦上爆撃機なら航空母艦だが、B25はアメリカ陸軍の大型爆撃機である。一番日本に近い陸軍基地のあるミッドウエーから来たとしか考えようがない。しかし、B25は4000キロしか飛べないはずだ。日本を爆撃して中国に着陸しても6000キロは飛ばなければならない。いつのまに航続距離が極端の増えたのかよくわからないが、ともかくミッドウエーを攻略するしかないという考えに落ち込んでしまった。ミッドウエー作戦は冷静な作戦判断を超えて、ミッドウエー島上陸ありきで始まった作戦なのだ。

アメリカ軍は、航空母艦が陸軍のB25を積んで日本近海まで進出し、大型爆撃機を空母から発進させるという曲芸をやったのである。空母が風上に向かって全力で航行すれば発進できると言うアイデアは民間航空出身のドゥリトル中佐が発案した。陸軍と海軍が対立していた日本の軍人には想像もつかない発想である。当然、B25の着艦は無理で、中国まで飛ぶしかない。それでも燃料が足らずに全機が失われはした。ドゥリトル空襲はアメリカ軍にとってもギリギリの決死隊的な攻撃ではあった。しかし、これが日本軍をミッドウエー作戦に追い込んで墓穴を掘らせる結果となったのである。

ミッドウエーで機動部隊を失って以降、まともに戦争に勝つための作戦は立てられず、まにあわせのものばかりとなり、それも全て裏目に出た。これに付き合わされた国民はたまったものではない。アッツのような玉砕があちことで始まり、200万の日本人が軍の面子のために命を捨てさせられたのである。
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