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海洋王国の虚構ーー中継貿易の実態 [歴史への旅・武士の時代]

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15世紀から16世紀にかけて、日本で言えば室町時代であるが、この当時琉球は中継貿易で繁栄を極めた海洋王国であったと思われているようだ。多くの歴史本がこれを書いており、小説などもこういった前提のもとに書かれているものが多い。しかし、これは本当だろうか?

琉球は海に囲まれており、古くから海外への渡航があったことは確かだ。続日本紀にも南島から大和への来訪があったことが記されており、遣唐使船が阿児奈波に漂着して帰国したことも記されている。中国でもすでに随書に琉求が現れている。地理的には中国、日本、朝鮮の中間点にあり中継貿易の結節点となる条件はある。しかしこれだけでは貿易で繁栄する要件を満たしているとは言えない。造船技術や航海術の発達や貨幣経済のような社会システムの卓越した整備が必要である。

琉球はサンゴ礁からできた島であり火山島ではない。だから小さな島ではあるが平地が多く火山島ではあり得ないような農耕の発達があった。この農耕の発達が小さいながらも独自の王国を生み出す条件となった。琉球は農業国だったのである。沖縄は早くから開けた島であり、縄文時代からの遺跡も多く見られる。しかし、サンゴ礁には砂鉄がない。鉄器文明の生まれようがないために、実に10世紀まで石器時代が続いた。外洋船の建造には多くの鉄釘がいる。その前に鉄の工具やそれを使った船大工といった職業の発生がいる。

日本での記録は、727年以来1400年代まで途絶え、この空白期間に文化の発達があって石器時代から一挙に海洋王国に発展したと言うことも奇妙だ。発達段階に応じた交流の拡大があってしかるべきだ。その後の経過もいぶかしい。それほどまでに隆興した国がなぜ、いとも簡単に薩摩に屈服するのだろうか。秀吉の朝鮮出兵に協力する名護屋城の建設資金を要求されても、薩摩からの借金に頼らなければならなかったのはなぜだろうか。交易で富を蓄積していたのではなかったのか。ペリーが浦賀に来航する前に琉球に立ち寄っているが、ペリーは琉球を世界で最も貧しい国と観察している。繁栄を極めた海洋王国と言うことには大いに疑問がある。

歴代宝案は1607年の記事で「計今陸拾多年毫無利入日鑠月銷貧而若洗况又地窄人希賦税所入略償所出如斬匱窘」と書いている。60年このかた、交易は全く利益が上がっておらず財政は困窮しているということだ。中継貿易は 尚真王の時代に最盛期を迎えたと言われるが、球陽141号が掲げる王の事績は「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ。」であり、交易についてはまったく業績とは考えられていない。結果的には交易は「もうからなかった」と考えるしかない。

琉球が明に朝貢を始めたのは、1372年に揚載が琉球に派遣されて招諭してからだ。まだその頃は琉球は三山に分裂していたのだが、中山の察度を最初として、各王は競って朝貢するようになった。臣下の礼を取らなければならないのだが、わずかばかりの貢物を持って行けば多大な下賜品が手に入るのだから朝貢は非常に分が良い交易だったのである。朝貢の回数はこのころが一番多い。朝貢に対する大盤振舞いは受け入れる側にも負担が大きいので、通常は2年1貢とかに制限するのだが、この頃の明は無制限で琉球からの朝貢を受け入れている。明にとっても琉球との交易が必要だったのである。

明は元を駆逐して成立したのであるが、馬の供給地は依然としてモンゴル族の北元が支配していたから琉球馬がほしかった。北方の緊張も続いているから、火薬原料もいるのだが、硫黄は中国に産出しない。琉球は硫黄鳥島に硫黄を持っていたのである。こういった琉球物産の供給は、小さな船での朝貢だけでは足りず、明から李浩を派遣して40匹の馬と5000斤の硫黄を持ち帰るといった直接買い付けの記録もある。小さな船ではいくら朝貢があってもまだ足らないという状況が続いたのである。

物流量の不足を補うために明は琉球に大型船を供与した。それだけでなく、船を操作する人材まで派遣した。破格の厚遇と言える。それだけ、明にとって琉球との交易の必要性は高かったということである。夜間航行のできる大型船と天測航法の導入で福州への無寄港直線ルートが可能になった。それまでは目視に頼った日中航法だったので航路は島伝いの与那国ルートだったはずだ。

もちろん朝貢は琉球に多大な利益をもたらした。土器しか生産できなかった琉球にとって明の陶磁器は重要だったし、砂鉄のない琉球では鉄器の入手は死活問題でもあった。鉄の農機具は農業生産を飛躍的に高めることができる。三山統一の基礎はこうした鉄の普及によってもたらされたものである。

しかし、明の支配が安定してくると硫黄の需要も少なくなり、また馬も中国本土に放牧地は十分あるのだから、琉球に頼る必要性はいつまでも続かない。それでも、琉球側にとっては鉄や陶磁器は欠かすことができないものであるから朝貢をやめるわけには行かない。物産がなく貢物に窮した琉球はこれを南方に求めた。福州からジャワスマトラに出かけ、その産物を持ち帰って明への貢物にしたのである。交換商品には明からの下賜品が使えたが往復には費用もかかるので朝貢は以前ほどの丸儲けではなくなって来た。

この時代の日本や南方への交易を中継貿易とする見方は内実がない。明への朝貢は270回もやっているが、日本への交易は15回、南方も60回に過ぎない。物流量の上からもこれが琉球を中心とした中継貿易でなかったことは明らかだろう。物流の圧倒的部分は明と琉球の間だ。南方への航路を見てみると、出発地も帰還地も福州である。だから殆どの南方交易品は福州で陸揚げされた。琉球には南方物産の出土が少ないことからもこれはわかる。交易の中継点は琉球でなく、むしろ福州であったと言える。

多くの海洋王国論者はこういった物流量を見る視点が欠落しており、交易があったと言う事だけで中継貿易だなどとする誤りを犯している。南方や日本との交易はあくまでも明への朝貢の補助手段であった。明皇帝の気を引く貢物を入手するための買い付けをやったに過ぎない。

尚徳王は、1465年に明に対し、概略次のように述べている。「近年、我が方の附搭貨物に対しては、絹物が給されていますが、お蔭で銅銭が欠乏して貢物が買えません。我が国の産物は馬と硫黄だけで他の物は他国から購入しております。どうか銅銭を給してください」。絹織物を日本や朝鮮に運んで莫大な利益をあげることなどできていない。実際、朝鮮への輸出はほとんど日本の商人頼みであり航海もしていないのだ。これからも交易は明への貢物の買い付けでしかなかったことがわかる。

馬や硫黄の需要がなくなると、明にとって琉球の価値は減ってしまう。1450年ころには、船の無償供与も終わってしまった。琉球には造船能力がなかったから、福州で船の買い付けを行わなくてはならなくなり、朝貢の利益はさらに薄いものになった。それでもなんとか交易が続いたのは、海禁政策により明の民間交易が制限されていたからである。明の交易は朝貢国による進貢以外は禁止されたので、琉球は一種の貿易特権を使えたことになる。

船は購入しなければならなくなってしまったが、派遣中国人たちは、久米村に中国人社会を形成し、中国語や航海術を保持していたからこれに頼って南方交易も続けることができた。彼らはいわゆる帰化人ではない。琉球王朝の家臣ではなく、琉球王は統率者の任免権も持たない。中国語で生活し、明の文化を保つ独立した存在だったのである。南方には華僑ネットワークが形成されており、これも琉球の交易に貢献した。1428年パレンバンへの交易船は、琉球王尚巴志の書状だけでなく、中国人集団の代表者懐機の書状を携えて行った。

南方交易を支えたものには、明の威光も大きい。歴代宝案にある琉球王から南方諸国への文書には、交易が経済的な目的ではなく、明皇帝への忠誠を示すためのものであることが強調されている。明の威光を使って有利な交易条件を確保していたことがわかる。

ポルトガルの東洋進出が始まり、1511年にマラッカ王国が滅びた。ポルトガルが進出して、琉球に替わって中継貿易をしたのが琉球が衰退した原因のように言われているが、ポルトガルが南方物産を大量に日本に運んだなどという事実はない。ポルトガルはヨーロッパの物品を持ち込んだのであり南方物品の交易とは関係ない。

普通に考えれば、もし琉球が中継貿易を担っていたのであれば、ポルトガルの進出で、さらに交易は広がるはずである。そうならなかったのは、琉球の交易は明の威光を背景にしたり、華僑ネットワークに頼った貢物の買い付けでしかなかったからである。そんなものはポルトガルには通用しない。ジャワに琉球船が来ていても、相手にせず、日本や中国と直接取引をした。これといった物産のない琉球には興味を示さなかったのである。

琉球の南方交易に置き換わったのは明や日本の直接交易である。明の海禁政策が弱まって民間貿易が行われるようになったから、琉球の朝貢特権は役立たなくなってしまった。日本の貿易商も進出してきて、琉球を素通りして明や南方に航海していった。航海能力に劣る琉球の出番は、当然なくなる。

朝鮮との交易はずっと日本経由だったが、応仁の乱以降は日本との交易も全て日本の商人が担うようになって、琉球からの派遣船はなくなった。久米村の中国人技術者も代をかさねることで琉球化して行き、久米36姓と言われる琉球王朝内の有力集団になってしまった。それと共に中国語や航海術も失われて行ったのである。

1534年に陳侃が冊封使として来琉した時には、渡航に琉球から来た航海士、蔡廷美の援助があったと記録している。この時はまだ在琉中国人集団が健在だったことがわかる。しかし、1570年を最後として南方交易は行われなくなった。1594年の朝貢では航路をまっとうできず、浙江(せつこう)に漂着してしまっている。航海が出来なくなってしまっているのだ。中山王尚寧が1607年の書簡で中国語も航海術も失われて朝貢がままならないことを嘆いている。明国の海洋技術は高度すぎて、琉球では消化し切れなかったのである。

明への朝貢による寄生でなり立っていた琉球王朝は、朝貢の行き詰まりから財政危機に陥った。秀吉から朝鮮出兵のための資金拠出を命じられた時も、これに答えることができず、肩代わりした薩摩への借金となり、これが薩摩による琉球支配の口実に使われることになったのである。それでも、中国からの輸入に頼らざるを得ない琉球は、明・清への貢物を日本から買い付けたり、倭寇との闇取引で手に入れ、赤字状態で朝貢を続けて行く事になった。赤字は米を売ることで補われた。そのため琉球の食料は常に不足することになった。琉球が海洋王国として栄えたなどと言うことは絵空事にすぎない。
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