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「うつろ舟」漂着の謎 [歴史への旅・武士の時代]

江戸時代にUFO型の謎の船が漂着したという話がある。1803年、小笠原越中守の所領、常陸国「はらやどり」と言う浜で、空飛ぶ円盤のような丸い形の奇妙な船を見つけた。船底は鉄で補強されていて、窓にガラスがはめられ中に女が一人乗っているのが見えた。箱を抱えていたがよほど大事と見えて手放そうとしない。船には怪奇な文字が書かれていた。色白で髪は赤く、服装は細身の筒袖で言葉は通じず、漁民たちは面倒を恐れてこの船を沖合に戻してしまったという。

この出どころは曲亭馬琴の「虚(うつろ)舟の蛮女」と題する書き物にあり「兎園小説」の中に出てくる。船と細身の衣服を身に着けた美女の図が付属している。

これはが全くの創作と言うこともあり得る。馬琴は言わずと知れた創作の達人である。芥川龍之介に「きりしとほろ上人伝」という作品があるが、その書きぶりから当然資料を丹念に調べて書いたものに思えたのだが、本人が随筆の中で実は全くの創作だと語っていて驚いたことがある。作家の想像力というのは凄いものだ。

「兎園小説」はこの他にも謎の少女の話とか、怪奇な謎話が多い。それをいかにも実話であるとする書きぶりになっている。うつろ船に関しても「これ以上詳しい事を知っている人がいたら教えてほしい」などと結んで、読者がある程度実話かと思うように仕向けてあるのは意図的かもしれない。柳田国男はうつろ舟を全くの創作だと決めつけている。

しかし、この話が出てくる資料は「兎園小説」だけではない。御家人屋代弘賢の「弘賢随筆」にも出てきて内容は図も含めてほとんど同じだ。馬琴は兎園会と称する文人の集まりを持っており、その中で各人が珍談奇談、面白い話を披露するのだが、それをまとめたのが「兎園小説」である。屋代弘賢は兎園会メンバーであり例会の記録として残したのだから、うつろ舟が兎園会での話題となった事は確かだ。馬琴がゼロから創作したものではない。

その他にも資料は見つかっており、その数は11になっている。馬琴は人気作家だから「兎園小説」で話は広がっただろう。どの資料も「1803年」「小笠原越中守所領」は共通している。「怪奇な文字」もほとんどが同じだ。ただ漂着地についてはバリエーションがある。馬琴の「はらやどり」は存在せず、いかにも実在性の薄い地名だ。それぞれが何らかの情報をもとに、この修正を試みたのかもしれない。「原舎浜」が多いが、「京舎浜」「常陸外濱」「安房の湊」「阿久津浦」というのもある。しかし、結局のところ、これらはすべて実在が確認できない。

漂着地の謎は続いたが、2014年になって三重大の田中嘉津夫さんが発見した甲賀資料に常陸原・舎利(しゃり)と地名が書かれていたことで場所の特定が一変した。この地名は伊能忠敬の日本地図にも載っている実在する地名だ。常陸原・舎利が常陸・原(はら)舎(やど)利(り)と転化したのも説明がつく。

常陸国の海岸は九十九里浜などと呼ばれ、利根川河口まで荒涼とした砂浜が続いていた。南部は常陸原とも言われ、ここに矢田部村、東下村があった。東下村の面積は広く、実際には波崎組、舎利組、高野組の3村に分かれていたようだ。舎利は人口も少なく、明治になって地引網漁業が盛んになるまで定住者もいなかった。これらの村は波崎町となり、現在は茨城県神栖市に組み込まれている。

新資料の発見で漂着地が確定したかと言うとそうでもない。問題は矢田部村、東下村が、旗本松下氏の所領であり、小笠原の所領ではないことだ。実は「小笠原越中守所領」自体に問題がある。小笠原宗準は1802年に不正があり御役御免となり、越中守ではなくなった。漂着した1803年には「小笠原越中守所領」はなかったのである。家督は息子の起言(珉之助)が継いだから小笠原家が常陸国に知行所を持っていたことは事実だ。しかしそれは山奥の筑波郡と新利根川沿いの内陸部稲敷郡河内町源清田にあり、浜辺ではない。漂着できる場所ではないのだ。

当時の旗本知行地は細かく入り組んでおり、一つの村が10以上に分かれていたりする。今のように民博のデータベースがあるわけでないから年貢を納めている当事者以外、誰の領地なのかは良くわからなかった。だからどの資料も「小笠原越中守所領」を疑問なく引き継いだのだろう。最初の資料が間違った結果だ。

馬琴よりも早い時期に書かれたことがはっきりしているのは松平定信の家臣駒井乗邨が書いた「鶯(おう)宿(しゅく)雑記」である。「鶯宿雑記」はいろんな書物を書き写したり、伝聞した事を書いたり、雑多に記録したもので、600巻に及ぶ膨大な資料だ。1815年から30年に渡って書き続けられたものだが、うつろ船部分は14巻に位置しているから1815年頃、馬琴より10年早く書かれたものだと言える。

「鶯宿雑記」の記事は「兎園小説」とかなり異なる。小笠原越中守の知行所から連絡を受けて(多分江戸屋敷に)調査に行ったが何もわからなかったと言うものだ。小笠原越中守の所領とは書いてない。「徒士頭として江戸在勤中」のことと書いてあるが本人でなく聞き書きかも知れない。駒井乗邨は徒士頭ではなかったし、1793年に松平定信が失脚し1803年には白河に戻っていたはずだ。図もついているが黒髪で和服を着ている。現地に行ったとしても、半年後だから見たわけでなく聞き取ったことを図にしたものだろう。大きく違うのは「奇妙な文字」である。四角ベースの複雑なもので文字と言うより模様ともとれるものだ。

「鶯宿雑記」は私家文書だから多くの人の目に触れるものではなかったし、奥州白河にいたから兎園会メンバーでもない。しかし、駒井乗邨は屋代弘賢とつながりがあった。屋代弘賢が1813年に「諸国風俗問状」を出した時に答えて白河の項を執筆したのが駒井乗邨だった。屋代弘賢が駒井乗邨からうつろ船の話を聞き兎園会に持ち込んだことは十分考えられる。

屋代弘賢が駒井乗邨からうつろ船の話を聞き、他のメンバーが雑多な情報を加えて「兎園小説」を構成して行ったのではないだろうか。奇妙な文字も当時、蛮字と言われていたものの一つだ。長崎の「おくんち」にもこの文字が現れている。蛮女の姿かたちは当時流行っていた養蚕の神様「金色姫」に似ており、金色姫絵姿の出版には馬琴も関与している。

金色姫の説話自体がうつろ船に酷似している。金色姫は継母に疎まれ命を脅かされた天竺の王女である。王は姫を憐れんで桑の木で作った靭(うつぼ)舟に乗せて大海に流した。それが常陸の国豊浦の湊に流れ着き、姫を救った翁に蚕を残し、これが養蚕の始まりだというものだ。

ちょっとした噂話に金色姫伝説を結び付け、膨らしたものが「うつろ舟」奇譚だろう。しかし、話の大本がどこにあって、どの程度のものだったたかは、やはり謎として残る。

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