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九州王朝のつまづき [歴史への旅・古代]

九州なのか大和なのかをめぐる邪馬台国の論争は古くから続いているが、近年は九州説が優勢なようだ。九州説が有力となったきっかけは古田武彦さんの「邪馬台国はなかった」に始まる新しい考察の登場だろう。三国志を読み解くこの新しい視点は多くの人々を魅了した。しかし、古田史学自体は『東日流外三郡誌』で大きく躓いて、一挙に信用を失なうことになった。なぜ古田さんは、このような偽書の罠に陥ってしまったのかを考えてみたい。

邪馬台国論争に参入した古田さんの主張によれば、従来の説に欠けていたのは資料批判である。松下見林以来、日本書紀に従い、日本の中心地は大和以外にあり得ないことを前提として中国文献もそれに合わせて読み取るということが行われてきた。まったく合理的とは言えない考え方が長らく史学を支配しており、誰もそこから踏み出せていなっかったという鋭い指摘であった。

魏志倭人伝には邪馬壱国と書いてあるのに邪馬台国と読むのはヤマトにつなげるためである。邪馬台と書き換えても、用例を調べれば、ヤマトとは読めないのだから、改竄読みに意味はない。にも拘わらず、九州論者も含めて邪馬台を山門に比定したりして、古代日本にはヤマト以外にあり得ないという呪縛に捉われてしまっていたのである。

確かにこの指摘には説得力がある。これまでの視点はあまりにも不合理だ。しかし、よく考えてみればこれは「資料批判」ではない。むしろ資料を安易に間違いとして正すことに対する批判であり、魏志倭人伝をそのままで受け入れると言う立場だから「反資料批判」である。魏志倭人伝の一字一句を信頼し、語句の意味を丁寧な用例調べで読み解いて行くのが古田さんの手法だ。

正確な読み解きをすれば、当然、日本書紀とは一致しない。しかし、古田さんは日本書紀の嘘を解明するという方向には進まなかった。むしろ日本書紀の字句をも信頼するのである。辻褄合わせのために、魏志倭人伝や随書はヤマトではない別の王朝の記録であるとし、日本書紀は別の王朝の歴史を盗用したものだとした。これが九州王朝説なのである。

歴史学の書としての日本書紀の最大の問題は社会発展という概念を持たなかったことだ。紀元前660年が石器時代であることを述べず、記紀編纂の時代と同じような「王朝」を記述する。中国から文字が伝わったとするが、その前もその後も社会は変わっていない。社会の変遷ということが抜け落ちている。

古田さんの九州王朝もこの点では日本書紀から一歩も出ていない。社会発展の分析抜きで、資料の字句にこだわった論考に終始している。だから、3世紀も5世紀も7世紀と同じような「王朝」しか考えられない。発展概念がない歴史観というのが古田史学の決定的な弱点だったのではないだろうか。本当の資料批判に至らなかったのはそのためである。

資料批判ではなく反資料批判であったことが偽書に騙されるもとになった。明治以降の造語が散りばめられていたりするのは誰が見ても偽書だ。古田さんは三国志であれほと稠密な考証を行ったのに、『東日流外三郡誌』に対してはまったく無批判だった。それは、『東日流外三郡誌』があまりにもボロだらけで、考証に至るものではなかったからだ。三国志のような理知的に書かれた資料だけを相手にしていた古田さんにとって、あまりにも勝手の違うものであった。

翻弄された結果『東日流外三郡誌』は九州王朝説に即して、誤謬を正して読めばよいということになった。これは松下見林が三国志を読んだと全く同じ誤りである。その動機は、九州王朝説の擁護にあった。九州王朝しかありえないという信念が先行したからである。古田さんは先鋭な大和王朝批判を展開し、その歯切れよさも魅力ではあったが、結果的に攻撃も受けることになった。それで過剰防衛が生まれたのかも知れない。

自説を展開する場合、もちろん他説との容赦ない論争は必要である。しかし、内心では自説に対する冷ややかな目を失ってはならない。言うは易し、ということだろう。
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