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景初二年問題-----卑弥呼の使いは何時のことか [歴史への旅・古代]

邪馬台国の卑弥呼の事を日本で初めて書いた歴史書は日本書紀である。神功記に「魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して.....」という引用を入れている。ところが三国志魏志倭人伝に実際書いてあることは、景初三年ではなく景初二年に倭の使いが来て帯方郡太守劉夏が卑弥呼の遣いを都に送り届けたと言う事である。日本書紀は引用時に年号を間違ったことになる。

しかし、そのような単純なミスが校正されなかったのはどう考えてもおかしい。この書き換えは意図的なものと考えるべきだろう。万世一系、神国日本という書紀記述はどうしても外国文献との齟齬が生じる。この矛盾を解決するためのごまかしが必要になる。

神功皇后を設定して卑弥呼との関連をにおわしてはいるが卑弥呼だとは言わない。言ってしまうとまた別の矛盾が出てくるからだ。日本のことは諸外国にも知られて文献もあるがそれは十分正確ではなく、ここでの記述と矛盾しても当然なのだよという主張を伝えたかったにちがいない。他の史書を調べて意図的に三国志を訂正して引用したのである。

実際、日本では日本書紀が正しく、間違っているのは魏志倭人伝の方だという事がずっと言われてきた。新井白石も内藤湖南も景初三年説を取っている。その理由は、日本書紀の著者が調べたように、三国志以外の史書、梁書や北史に景初三年と書いてあるし、景初二年では辻褄が合わないことを指摘できるからである。

帯方郡の太守公孫淵は魏帝に歯向かい、景初元年には出頭命令を拒否し、独立を宣言して燕王を名乗った。司馬懿が討伐に向かい、公孫淵を討ち取ったのが景初二年八月二十三日である。卑弥呼の使いが来たという六月はまだ戦闘中で、帯方郡に太守劉夏が居て難斗米を都に連れて行ったなどということがあり得ようはずがないというわけだ。

三国志の序文にも「景初中大いに師旅を興して淵を誅す、又潛軍を海に浮かべ樂浪帶方之郡を収む、而後に海表謐然し東夷屈服す」とあり、帶方郡の支配を奪還したのは公孫淵を討ち取った後のことだと読める。晋書でも「宣帝の公孫氏を平らぐるや、その女王は使いを遣わして帯方に至り朝見し」と女王の朝貢は公孫氏を滅ぼした後のことになっている。

それでは、三国志本文が単純ミスを書いたかというと、それも考えにくい。良く読んでみると帯方郡の支配を取り戻したのは絶対に公孫淵を殺してからだとは言い切れないところがある。序文は2つの文の間を「又」で結んでいる。前後関係は必ずしも確定的ではない。晋書も「平ぐる」と書いているが、これが公孫淵誅殺と全く同じ意味であるとは限らない。

「潛軍を海に浮かべ」という海路遠征のことは魏志韓伝にも載っており、「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡」とある。何年とは書いてないが、「密かに」とあるのは、まだ公孫淵が健在だということを意味する。遼東に進出してきた公孫淵の背後を突いて、海から帶方・樂浪に太守を派遣したのだ。だとしたら、六月に楽浪郡の太守が卑弥呼の使いを受け入れ、都に送り届けることもおかしくはない。まだ遼東では戦闘が続いているが、本拠は魏の手中に落ちていたのである。

楽浪郡の太守が任命されたのはおそらく景初元年だろう。反乱した公孫淵から太守の地位を剥奪したのだから、この時点で次の太守劉昕を任命しなければならないはずだ。実際に魏の水軍が楽浪郡に乗り込んだのはもっと後であるが、司馬懿の遠征よりも早かったかもしれない。司馬懿の遠征軍の出発は諸葛孔明との戦いが終わるまで待たなければならなかったので反乱の一年後、景初二年になってからのことになったからだ。

景初二年六月に卑弥呼の使いが来た時には、楽浪郡の戦闘は終わっており、太守は劉夏に交代していたことになるが、これは戦闘部隊の指揮者としての太守から行政官としての太守への人事異動だと見ることができる。景初三年説なら、二年九月以降に派遣された太守が半年後には交代するというあわただしい人事の理由がない。

景初三年説には、もう一つ問題がある。それは魏帝が難斗米に与えた言葉だ。明帝は景初二年の末に亡くなっているから景初三年に謁見したとすれば、それはまだ八歳の曹芳と言うことになり、誰かの代筆であったとしても、「我甚だ汝を哀れむ」などという表現は全くふさわしくない。使節は明帝に会ったと考えるべきだろう。

公孫淵との戦闘中に倭の使いが来京したことをもって、魏と倭の同盟などというのは考え過ぎである。魏にとって倭国の軍事力などはゼロに等しい。女王国は「使役を通じる所三十国」の一つに過ぎず、倭全体を強力に支配しているわけではなかった。まだまだ部族社会の延長上にあり、「王朝」などと呼べる代物ではない。子細にばかりこだわると社会発展の視点を失ってしまいがちだ。

倭が直接的に朝貢したのはこれが初めてである。それまで倭奴国が朝貢したりしているが、出先機関である帯方郡に詣でたに過ぎない。倭は帯方郡の管轄になっていたのだ。公孫氏が帯方郡を支配するようになってからは、本国に倭の使節の報告もしなくなったから、正史では倭の記録が飛んでいる。この時も、いつものように倭の使節は帯方郡に赴いたが、本国との戦争という事態になっており、新たに赴任した太守が本国に難斗米たちを送り届けるということで初めての直接朝貢が実現した。

帯方郡まで六月に到着しながら明帝への拝謁が12月になったのは、無論、戦乱の影響である。明帝から下賜品を貰い印綬を仮託されたが、このあとすぐに明帝はなくなった。帯方郡から梯儁らの使節が倭に向かったのは、間があいて二年後の正始元年になったが、これは景初三年は明帝の喪に服さねばならなかったのだから不自然ではない。八歳の養子への相続であり政治的にも複雑で改元も行われなかった。

一年だけの違いではあるが、これがいくつかの歴史論争に影響を与える。魏が卑弥呼に与えた銅鏡百枚が出土している景初三年の三角縁神獣鏡であるとする説は、景初二年の朝貢では成り立たない。もっとも、三角縁神獣鏡は鉛の同位体分析からも銘文韻律の不備からも国産であることがほぼ確定したからこの論争はすでに決着済ではある。

資料の信憑性ということにつながることも大きい。三国志を改定した梁書や北史といった後代の書物は、不十分な考察で間違った訂正をしている可能性が高い。この訂正には邪馬壱国を邪馬臺国と書き換えたリ、壱与を臺与にしたりする操作も含まれている。
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