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任那日本府の謎 [歴史への旅・古代]

学校で教わった日本史の教科書には任那日本府が562年に滅びたということが出てきた。不思議なことに、ではいつ出来たかと言うことについては何も書いてなかった。

日本書紀の仲哀記には神功皇后の三韓征伐という記事があるが、魚が船を運んで新羅中央に飛び込んだら戦わずに新羅は降参してしまい、ついでに百済や高句麗も服属するようになったといった荒唐無稽な内容だ。仲哀天皇や神功皇后の実在自体が極めて疑わしいものだ。どうも任那日本府はこの時にできたと想定されているらしいのだが、まさかこれを史実とするわけにも行かないから教科書には出てこなかったのだ。

日本書紀はこれ以降、朝鮮三国が日本に朝貢する記事が何度も出てくる。しかし、これは全くあてにならない。何しろ中国(呉)まで日本に朝貢したことになっているくらいだ。朝貢は貢物を持って行って、見返りとして称号や文化知識、多大な恩賞をもらうのが目的だから、これらの先進国が日本に朝貢するわけもない。日本という国号を使いだしたのは天武期からだから、この時代に日本府などという名称そのものがあり得ない。日本書紀編集時の見栄から出た創作としか考えようがない。

しかし、朝鮮に関する記事が多いのは事実でありこれが何を意味するかは考えなくてはならない。日本と朝鮮は狭い海峡で区切られているだけなので古くから交流があった。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の卑弥呼の記録も楽浪郡を通じての記事だ。249年に壱予が晋に朝貢したが、その後については、あてにならない日本書紀の記述以外に手掛かりがなく、413年に倭の五王の一人、賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいる。

414年建造とされる好太王碑には400年と404年に二度にわたる倭との戦いが書いてあるが、日本の記録とは対応しない。よく議論される「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民 」という一文は、日本では倭が海を渡って新羅を臣民にしたと読まれることが多いが、これは明らかにおかしい。高句麗が「臣民」といった場合、好太王の臣民に決まっている。敵の「臣民」はあり得ない。倭の襲来に毅然と対応できない新羅百残を渡海作戦で打ち破り、直接の臣民としたと読むべきである。

これは396年に百済を攻めた時の理由説明であり、倭との戦いではない。前述の三韓征伐も高句麗と戦ったとは書いてない。そもそも日本書紀には高句麗という国が出てこないのだ。替わりに出てくるのが高麗という国だが、高麗は10世紀に朝鮮全域を支配した国だ。この時代はおろか、日本書紀が書かれた時にもまだ存在しないはずだ。

日本書紀に高麗が現れる理由は少し複雑で、実は高句麗が520年ころに高麗と名を改めたらしい。10世紀の高麗は自らの出自を高句麗王朝と関連付けるためにこの名前を受け継いだものだ。魏書では518年まで高句麗で、梁書の520年記事が高麗の初出である。随書も591年記事からは高麗である。ヤマト王権は520年まで直接の接触がなく、高句麗を高麗としか認識しなかったのだろう。あるいは、記録がなかったので日本書紀の編者が当時の知識で創作したことの現れかもしれない。

好太王碑は当時のままの金石文が残っていたのだから一級資料ではあるが、事実が書いてあるというわけではない。百殘新羅舊是屬民というのがそもそもウソだ。百済との戦いは369年から始まり、371年には高句麗王が戦死するほどに百済が優勢だった。高句麗の属民であるはずがない。当然それに続く文も怪しい。まだ古墳時代が始まったばかりで、熊襲と国内戦を争っている倭に、新羅、百済の全域を支配するような軍事力を朝鮮に送れたはずがないのだ。新羅、百済が倭寇に対して弱腰だったと言うに過ぎない。

当時の王碑というのは事実を書くのではなく、どれだけ大風呂敷を広げられるかを競うようなものだ。好太王碑は高句麗が最強であるという立場で書かれている。百済は、百残と書いて憎しみを露にする仇敵なのだが、実際には百済が優勢だったりする。劣った存在であるはずの百済が優勢だったことを釈明するために、その背後関係を持ち出さなくてはならない。そのために倭が持ち出されているように思われる。海を隔てた島に、政権があったことは認識されており、任那・加羅といった小国のくせにしぶとい国とも関係する不気味な存在ではあっただろう。

400年の戦争は、新羅に倭が侵入して助けを求めたとなっている。好太王は五万の兵を派遣して新羅救援を行った。これが高句麗・倭の大軍対決になったかというとそうではない。新羅に進軍したらウヨウヨいた倭人は任那加羅方面に逃げ去ったと言うだけである。倭が大軍を派遣していたとは読み取れない。隙をついて安羅軍が新羅の王都を占領してしまったと言うのだから、5万人の軍勢による制覇とは程遠い。その後の戦闘については語らずウヤムヤになってしまっている。結局、新羅と任那加羅安羅といった南岸諸国との争いに高句麗がちょっと介入してみたと言うだけのことだろう。任那が出てきて倭に寛容であったと読めるが、倭が支配していたとは書いてない。

404年の戦闘もおかしい。倭が帯方郡に侵入してきたと言うのだが、帯方郡に至るには百済を制圧しなければならない。しかるに百済は健在であり高句麗に服属していることになっている。百済と倭の戦闘は起こっていない。倭が百済を飛び越えて海路で帯方郡を攻撃するというバカなことも考えにくい。高句麗の大軍に匹敵する軍勢を一気に運ぶだけの船を調達するのは難しい。もし、任那に日本府があれば当然倭軍は任那に集結して進軍するだろう。

この時も高句麗は大軍を派遣して大勝利を収めたことになっているが、実際に戦闘があったかどうかは分からない。広開土王碑の立場は、高句麗が絶対優勢であるということを貫いており、不都合なことは、背後勢力のためとして、そのためにいつも倭が持ち出されているのだ。倭との実際の戦争は存在感がない。

日本側の資料も建前優先ということでは同じようなものである。日本書紀は三韓征伐以来、朝鮮半島の任那を領土として、新羅と対立していたという立場で書かれているが、継続的な役人の派遣は見られず、支配の実態に乏しい。唯一任那国司に派遣されたという吉備臣田狭は裏切って新羅についた。新羅征伐に派遣された葛城襲津彦も美女に惑わされて逆に加羅を討った。紀生磐宿禰は任那をわがものとして高句麗と結んだ。といった具合で、おかしなことに、出てくる人物がことごとくヤマト政権を裏切っている。

これらの人物はむしろ朝鮮半島でヤマト政権からは独立した存在だったと考えるほうが自然だ。生き残りのため百済についたり、新羅についたり、あるいは倭と結んだりする。好太王碑の文面も、倭が戦略を持って日本から進撃してきたというようには取れない。ちょっかいを出して追い払われるといったことを繰り返しているから、やはり朝鮮半島南部にいた倭種との抗争だろう。朝鮮の倭は日本と関係を持ってはいたが、ヤマト王権に属しているわけではなかった。ヤマト王権は朝鮮の領土にこだわりを見せているが、実体が伴っていない。

もう少し後の年代になってもやはり見栄的な記録が続く。ヤマト王権は継体期に6万の軍勢を朝鮮に送ったが、筑紫国造磐井は新羅から賄賂をもらって新羅討伐を妨害したというのだから国内戦を合わせるとあり得ない大軍になる。天智期の白村江の戦いには2万7千の大軍を送ったことになっているが、これもあり得ない。この直後に起こった王権をめぐる総力戦である壬申の乱でもせいぜい数千の衝突でしかない。795年になって藤原仲麻呂が新羅遠征を企てたことがあるが実現していない。遠征軍の派遣は8世紀末の生産力をもってしても困難な事業だったのである。

任那日本府は562年に滅びたのであるが、これに対して何の対策も取っていない。百済が攻められるのだが無関心で、滅亡して遺臣が再建を策した時に初めて介入する。唐は朝鮮半島を直接支配する意図がなかった。新羅、百済に対して再三和平を勧告しているし、滅亡後も扶余隆を百済王と認定している。日本書紀では百済再興と書いているが、実際には扶余隆と豊樟の跡目争いだったようだ。

白村江の戦いが本当に、これほどまでの大軍を派遣しての敗戦なら国内的にも動揺があるはずだが、それは全く見られない。中大兄皇子は責任を問われず平然と天皇に即位している。次期を担う有力者であるはずの大海人皇子はまったく戦争に関与していないし、日本書紀の記述は他人事のような淡々としたものだ。665年には、何事もなかったかのように遣唐使を派遣している。

白村江の戦いで具体的な戦略立案をしているのは、朴市秦 田来津(えちはた の たくつ)という人物だが、不思議なことに19階の位階制度で、14番目の小山下という下役である。これもヤマトからの派遣ではなかっただろう。基本的には白村江も朝鮮半島内で争われた戦いだ。唐・新羅に朝鮮半島に残った倭種が鎮圧されてしまったということだろう。

日本書紀の記述にどれほどの信憑性があるのかはには注意が必要である。権力者が文字を使いだしてすぐに思いつく用途は国史の編纂である。だから文字自体はもっと前から伝わっていたとしても、紙や筆を手に入れて実際に使い始め、確実な記録が残るようになったのは、日本書紀が出来た直前頃だということになる。天武朝以前のことについては、言い伝えや憶測をもとにした創作でしかない。

ヤマト王権には朝鮮支配に対する強いこだわりがあったが、これは天皇家の出自が朝鮮半島にあったことを示すだけである。海峡国家に始まった倭の中心地は大和になっており、朝鮮半島の倭種との関係は希薄になって、もはや外国であったが、友好的だった任那・加羅などを願望を含めて建前上領土と記録したかっただけのものだと考えて良いだろう。確実な記録が残るようになって以降、朝鮮半島の領土といった記述は一切なくなるし、失地回復を目指すといった話も全く出てこない。農業以外に産業がない時代には朝鮮半島に領土を持つことに実利がなかったからである。
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