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讖緯説と古代天皇の寿命 [歴史への旅・古代]

日本書紀が記述する古代の天皇は、いずれもやたら長生きしている。神武天皇は、一二七歳まで生きたとされるし、十五代応神天皇まで百歳以上が続出していることになる。この不自然さには、誰でも疑問を持つから、これを讖緯説で説明することが古くから行われている。讖緯説とは中国の漢代の末から盛んになった思想で、歴史や政治上の変革を占星術や暦学の知識によって解釈し予言しようとする説である。

明治の初めにこれを言い出したのは、那珂通世であり、神武天皇の即位日が太陽暦の二月十一日であることを算出したことで知られる歴史家だ。那珂通世によれば、干支が一巡する六〇年を一元とし、二一元を一蔀(ぼう)として、一元ごとの辛酉の年や甲子の年には変革がおこり、さらに一蔀すなわち一二六〇年ごとに国家に大変革がおとずれるというのが讖緯説である。神武天皇の即位は、国家の始まりであるから、この一二六〇年ごとの辛酉の年でなければならないからということで、日本書紀の記述は、時間を引き伸ばさざるを得なかったというのだ。

この説が広く通説のごとく受け入れられているようだ。日本書紀の一年を半年に読み替えたり、あるいは記事のない年を省いたりして編年を再生しようという試みが、今もいろいろとなされている。しかし、讖緯説は周期を定めるだけで、絶対年代を定めるものではない。基準となる革命があって、そこから一二六〇年前を神武即位としたということになる。

一体何を基準にしての一二六〇年なのかというと、当然それは六〇一年となるが、この年には特に大きな事は起こっていない。推古天皇が即位して九年目に斑鳩宮を建立した年である。ころころと都が変わる時代に、斑鳩遷都がそんなにも大きな国家の変革であったのかというところで、この説に疑問が生じる。一二〇年後の日本書紀が書かれた頃から見れば、この他にも大事件はいっぱいあった。こんなものを基準にして国の始まりを規定するのは、どう考えてもおかしいことになる。

讖緯説の基準年がおかしいということの原因の一つは、那珂通世の誤解にあるとも言われている。讖緯暦運説というのは、もう少し複雑である。陰陽五行に基づき、日食、月食、地震などの天変地異又は緯書によって運命を予測する。先秦時代から起こり漢代から盛行した。鄭玄(一二七―二〇〇)が集大成したといわれる。原文は失われているのだが、三善清行の『革命勘文』(九〇一年醍醐天皇に献納)には鄭玄の引用と思われる文が残っている。

「鄭玄曰く、天道は遠からず、三五にして変ず。六甲を一元と為す。四六、二六交相乗ず。七元に三変あり。三七相乗じ、二十一元を一蔀(ぼう)と為す。合わせて千三百二十年」とある。よくわからないような計算だが、結論は、一二六〇年ではなく、一三二〇年が周期である。

那珂通世は、「二十一元を一蔀と為す」だけを取り出して、当てはめを行った。だから何でもない普通の年を、辛酉革命の基準にしなければならないなどという変なことになった。では一三二〇年周期で考えると、基準になる年がいつかと言えば六六一年天智天皇が非公式に即位(称制)した年になる。正式な即位は六六四年だ。このほうが少し大事件ではあるが、革命が起きたといえば、四年前の六四五年大化の改新のほうが、大々的に詔勅も出していて、それにふさわしい。だから、この根拠もやはり釈然としない。

原典が読めないので、定かではないが、「四六、二六交相乗ず」は四元、二元が交互に変となると読め、これだと、最初の七元で変は三回ではあるが六元周期で、「三七相乗じ」とする理由がない。「三五にして変ず」は干支か一五巡する一八〇年の周期と理解できるらしいのだが、これとの重なりをとれば、七二〇年周期となる。二巡で一四四〇年だから、一三二〇年には合致しようがない。那珂通世が単純化して、「二十一元を一蔀と為す」だけを取り出しのは、こういう事情からだろう。そもそも、讖緯説は天下世界を対象とした宇宙の原理でなくてはならず、日本だけを対象とした地域によって異なる基準年を導入するなどと言うことはありえない。

鄭玄の原典が存在しない理由は、魏以降は、排斥されて禁書になったからだ。易姓革命によって王朝の交代を正当化する物騒な学説なので、安定な政権運営に、大変都合の悪いものだった。実際、新の王莽は、これを利用して漢から政権を簒奪したし、謀反合理化に度々使われた。そのため、儒教からも異端とされたり、偽書と規定されたりもした。ただし、革命が唱えられたことは事実であるが、それに周期性があったり、辛酉年に起こるなどという事を記述する文献は、実は残っていない。禁書で消滅したものかどうかはわからない。

日本では、九〇一年に好事家の三善清行が、讖緯説をほじくりだし、改元を上奏したのがその始まりである。本当の革命が起こらないように、改元して厄逃れをしようと言うのがその主旨だ。それ以来、辛酉年には改元が行われるのが定着したが、逆に言えば、この上奏があるまで、讖緯説は普及していなかったということになる。それ以前には、改元も行われていない。辛酉年に大変が起こったことを列挙して、論証したのだが、この時、神武即位が辛酉年であることに気がついて、根拠のひとつにした。しかし、辛酉年に注目しただけで、蔀による大革命には触れていない。三善清行の目的はライバルである菅原道真を追い落とすために、噂として流した道真たちの挙動を、革命を意図するものだと強調することにあった。辛酉が意識されればそれで良かったのだ。そのためか実例として挙げている歴史事項の統一性がなく、讖緯説の論証としては、ちぐはぐなことになっている。

禁書にされたような考えが、早い時期にしっかりと日本に伝わるとも思えない。日本書紀が書かれた七二〇年頃に、日本で讖緯説が常識的な寿命を無視するほど強く信奉されていたと考えるわけにはいかないだろう。異常に長い寿命の根源を讖緯説に求めるには無理がある。禁書にされたとは言え、実際に讖緯説が定着していたならば、後の中国にもその片鱗があるはずだが、実は、辛酉革命説は日本以外でまったく確認されないのだ。三善清行の創作でしかないとも考えられる。そうすると、讖緯説などとは関係なく、ただ単に適当に年代を引き伸ばしただけということになる。もし、神武即位が壬申に当たっておれば、壬申革命説が持ち出されたことだろう。

日本書紀の成立史が、この問題では大きなヒントになる。森博達氏の研究によると、α群に属する日本書紀記述の第一期は、二一代雄略天皇から始まっていたのだが、ここでは資料に基づき、人間としての天皇の寿命を記述した。歴史を書くという意識が貫かれていたのである。第一期がここから始まったということは、それ以前の資料がなかったということになる。

それ以前を付け足した第二期執筆では、歴史としては書けない部分に足を踏み入れた。神代とそれにつながる天皇の系譜が主題である。資料と呼べるものはなく、言い伝えに創作を継ぎ足した記述にならざるを得ない。この問題に先鞭をつけたのは古事記だ。古事記は、編年体ではなく、年代をあまり意識せずに記述が進んだ。応神以前に15代もあれば、神とつながってもおかしくない、十分に昔のこととして描ける。しかし、日本書紀は本格的な歴史書としての体裁を取った。中国の歴史書には紀元前の記述もあり、普通に考える15代前では、神代として不具合になることがわかった。いまさら天皇の人数を増やすわけにも行かないので、日本書紀では、寿命を引き伸ばしたのだ。

当時の考え方としては、寿命が長くなることは、そう不合理ではなかった。天孫降臨で、天皇は神の末裔であるというのが根本的な考え方であり、神は永遠のものでなくてはならない。神へとつながりを持たせなければならないから、当時の人にとっても神話であった一五代応神天皇以前については、当然寿命は長くなる。病気は「たたり」だとか不純なものの結果であると考えられていたので、人間であったとしても、神に選ばれて国を治めた過去の偉大な天皇の寿命が短くあってはならないことは、いわば常識だっただろう。そうすることによって、魏書にある卑弥呼の部分を、神功皇后に匂わすことも出来て、一石二鳥だったとも考えられる。

紀元前六六〇年、明らかに弥生時代の、まだ大きな集落や、ましては国と言えるものが存在し得ない次期に神武即位を設定してしまったのだが、もちろん、その時代に考古学的知識は皆無だったのだからしかたがないだろう。
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