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なぜ征韓論が内戦にまでなったのか [歴史への旅・明治以後]

征韓論が大問題となった明治6年と言う時期は、重大な内政問題が山積みであり朝鮮と戦争するどころではなかったことが今では誰にでもわかる。だから征韓論が大勢を占め、その始末が政府の分裂から内戦にまで至ったことはなかなか理解しがたい。明治政府の参議筆頭であった西郷隆盛が政権を放り出してしまう必要がどこにあったのか。

これを解くには明治維新とは一体何だったかに遡らなければならない。明治維新は大きな変革ではあったが、庶民にとっては、幕府でも天皇でも結局おなじことであり、言わばどうでも良いことだった。政争の中身的にも武士と武士の争いでしかなく、民衆には社会的な必然性もなかった。だから近代化などということは、当時の文献の何処にも勿論出てこない。明治維新は、全く観念的な武士たちの哲学論争の結果なのである。

徳川幕府崩壊の大元を作ったのは水戸光国である。幕府が発足し、民心も安定したところで、国のイデオロギー的基礎を固める作業が必要となり、それが大日本史の編集であった。かつてヤマト政権が行ったように、歴史を書き換え、日本が徳川氏の支配になることが運命付けられており、萬世一系の徳川氏が唯一の正当政権であることを基礎付けるべきだった。少なくとも日本書記などが都合よく歴史を改竄したものだということをはっきりさせておくべきだった。ところが、水戸光国はヤマト政権の作った日本書記などをそのまま正史として採用してしまった。徳川氏は2代目以降も、天皇から征夷大将軍を委託されて政権を担当する形式になったのである。

これでは将軍が徳川氏であることに何の必然性もない。武家の中心規範は理屈をこねずに主君にしたがうことだから、天下泰平のうちはそれでもよかった。多少異論があっても「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」と言う朱子学のテーゼで議論を終わらせた。しかし、外国船が出没し、外国と条約を結ぶなどということになると国の主体がどこにあるのかが当然問題になってくる。黒船の大砲の威力に対抗できず、右往左往の醜態をさらすとなれば幕府の正当性がますます疑われるようになる。

攘夷で始まった幕府批判は、国学の流行に結びつき、たちまちのうちに日本中が国学イデオロギーで塗りつぶされるようになった。国学とはすなわち狂信的な天皇崇拝の思想だ。神国を護るために、サムライテロが荒れ狂った。おびただしい人々が暗殺されたが、一面、この狂気が外国人を恐れさせて居留地にとどめ、国内市場を外国資本が支配してしまうことを防いだともいえる。

幕府公認の歴史書「大日本史」が正しいとすれば幕府は潰れねばならない。もう誰にも国学思想は押し留めることが出来なかった。国学の帰結である王政復古の要求は日増しに強くなったが、徳川幕府は全く反論していない。幕府には対抗理論が存在しなかったのだから仕方がない。せいぜいが公武合体を画策して日延べするくらいの抵抗策しかなかった。

国学のイデオロギーは萬世一系の天皇を頂く日本が唯一の神の国であり、天皇が世界に君臨する存在であることを主張する。ヤマト政権が権威付けに作り出した神話であり、もちろんこんなものが国際的に通用するはずがない。中国には中華思想を軸とする厳然たる秩序があり、朝鮮や琉球は冊封体制に組み込まれている。キリスト教国から見れば、日本が神の国であるなどと言うことなどお笑いでしかない。しかし、当時の人士はこれをよりどころとして信じ、命をかけたのである。

現実が困難であればあるほど理論は先鋭化する。何が真実かを実力で示そうとする。日本を神の国とする国学イデオロギーの行き着くところは世界制服しかない。佐藤信淵は早くも1823年に「混同秘策」で世界制服論を述べている。吉田松蔭も「獄是帳」で「国力を養い、取り易き朝鮮、満洲、支那を切りしたがえ、」とやはり世界制服論を展開している。明治維新をもたらした思想はそのまま海外侵略へ日本を駆り立てることになる。

しかしヤマト政権が掲げた天皇制のイデオロギーは、実は過去に一度挫折している。中国のあまりの強大さのために、日本も東夷として朝貢せざるを得なかった。中華冊封体制に組み込まれ文化的にも従属した。それゆえ、再挑戦の明治王政復古にとって中華思想の克服は中心的な課題となった。明治維新は中華思想を克服せずには完結しないものだったのだ。朝鮮王朝が明治政府の通商を断り、中華冊封体制の堅持を決めたことは、勤皇の志士には国学イデオロギーの挫折を強要されたに等しかった。

だから、まだ新しい政府の何も整わないにもかかわらず「征韓論」が持ち上がった。これは単なる政策の優先度争いではない。考え方としては明治維新の完成と征韓論は一体のものだった。実際、征韓論に対して真正面から反対を唱えた人は誰もいない。王政復古を推進する限り反対する理由はないのだ。西郷はじめ多くの人々が征韓論を唱え、政府部内でも多数派を形成した。しかし、欧米視察帰りの現実派が陰謀でこれをひっくり返したのだ。公家の戦争恐怖を利用して策略的にこれを押さえ込んだし、天皇の裁可という切り札を使われると征韓派ももう従うほかない。現実主義になりきれない征韓派は、これは我々の目指した明治維新ではないと、下野せざるを得なかった。

おそらく征韓論が現実にそぐわないとは意識していただろう。それでも征韓派は明治維新を貫きたかったのだ。明治維新は国学の理想に熱狂した精神運動だった。この理想のために殉じることがもっとも気高いこととされ、実際に多くの有能な人々が、立派であるからこそ死んだ。吉田松陰、久坂玄随、高杉晋作、坂本竜馬、武市半平太、など数え上げればきりがない。

西郷隆盛や前原一誠には、自分がこれらの人々から死に遅れた自責の念が強かったにちがいない。とりわけ西郷には死に後れ意識が強かった。玄昉と二人で投身自殺を企てたこともある。この時は玄昉だけが死に西郷は助かってしまった。だからあくまでも明治維新の理想を貫き、ことの流れに身をまけせて死んでいくことを望んだのである。

近年、西郷隆盛の征韓論を擁護する論調が出てきているが、先に使節を送る二段階論といきなり兵隊を送る一段階論に大差はない。事実、西郷は朝鮮での軍事作戦まで立てている(広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」)。後年の日清戦争での朝鮮侵攻経路は、このとき西郷が考えたものと同じだ。最終的には征韓派はすべて西郷の二段階案に同調したから西郷が征韓論の中心人物になった。

西郷は自分が使節となり、烏帽子直垂で出かけて日本こそが神の国だと説得するつもりだった。もちろん朝鮮との間に妥協点を見出すような外交は西郷の忌み嫌うことだ。腹を割って話せばわかると本気で思ったかもしれないが、所詮外国には通用するはずがない理屈だ。死に場を求めている西郷はその場で切腹するつもりだったかもしれない。維新の理想に殉じて死ぬことこそ西郷が求めていたものだからだ。

征韓論が頓挫して、大久保や伊藤のような「不純」な志士達が主導するようになってやっと明治政府は近代化を方向とすることが出来るようになった。しかし、国学思想の呪縛は節々で現われ、第二次世界大戦が終わるまで日本を戦争の世界に引きずったのである。
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コメント 1

east-de

歴史ブログもしてらっしゃったんですね、私も最近歴史モノが好きになったので、これからも楽しみにさせていただきます!

私の歴史好き歴、浅いです。笑。
何しろ始まりが漫画でしたから。
その後司馬遼太郎さんや、大河ドラマを楽しむようになりました。

幕末〜明治が一番興味があります。
刀や単なる舟を扱ってた人達が、
その精神のまま、
鉄砲や軍艦を扱ったらどうなったかというか、

10年位の間に50年分位物質だけ進化して、精神はそのまま、、タイムスリップじゃないけど、、そんな感じがとても好きですね。

幕末期、颯爽と現れた西郷さんほどの人格者が、最期はなんか、どうしてそうなっちゃったの?もうみんな明治行ってるよ?って思ってましたが、少し理解できたような気がします!
by east-de (2017-01-15 18:07) 

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