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木口小平の真実 [歴史への旅・明治以後]

岡山から伯備線で一時間、備中高梁に行くと木口小平の記念碑がある。知らない人も多いだろうが、年配の老人は必ず知っている有名人だ。戦時中、むりやりにでも覚えさせられた名前で、最近また有名にしようという動きもある。「つくる会」のアナクロ教科書が戦前復帰で木口小平を復活させた。ところがその記述を見てみると、「死んでもラッパを手から離さなかったとして、その当時、有名になった。」となっている。「手から離さなかった」だけなら単なる死後硬直でしかない。ラッパを"口からはなさずに"死んだと言う職務遂行の執念がこの美談のポイントなのだから、とんでもない誤りと言える。

この教科書は内容が杜撰で初歩的な誤りが多いそうだが、自らが主張する重要部分ですらこの程度のいい加減さで作られているのには驚かされる。政治的主張だけがあって、子どもたちにまともに歴史を教えるつもりの全く無い教科書である。第三期国定教科書の「キグチコヘイハ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」は、われわれ団塊世代でも親から何度も聞いて覚えているくらいだから、戦中世代にはよほど脳みその奧まで刷り込まれたフレーズだったはずだ。

実際にどのように扱われたのかを調べて見ると、ラッパ手の武勇伝は早くも日清戦争直後から教科書に出てくる。しかし、その名前は木口小平ではなくて白神源次郎となっている。尋常小学校修身教科書は「しらがみげんじろうは、いさましいらっぱそつでありました。げんじろうはてっぽうのたまにうたれても、いきがきれるまでらっぱをふいてゐました」と書いている。岡山県浅口郡水江村(現倉敷市)には明治二十九年に建立された記念碑もあり、日清戦争直後から大変有名になって、「姓は白神名は源次郎……」と言う歌も出来たことがわかる。だから「当時有名になった」のは木口小平ではなくて白神源次郎である。

日清戦争当時はまだ国定教科書と言う制度はなかったのだが、明治35年(1904年)に国定教科書が出来ると共に「アトデミタラ、コヘイハ、ラッパヲクチニアテタママデ、シンデヰマシタ」と名前が改められ、最終的には先出の「シンデモラッパヲ」のフレーズになったというのが事の次第だ。なぜ7年あまりも経ってから教科書の登場人物の名前が突然変わると言うことになったのだろうか。原因は広島の第五師団司令部にある。

明治政府が徴兵制を敷いて、これまで武士の専権行為であった戦争に庶民を駆り立てることとなった。初めての対外戦争である日清戦争では本当に百姓・町人の兵隊で戦意高揚できるのか非常に不安だったのである。そのためどうしても下級兵の戦争美談が必要になった。海軍では三浦虎次郎という18歳の三等水兵を「まだ沈まぬか定遠は….」の勇敢なる水兵として歌い上げた。陸軍でも終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ手が戦死したという話に飛びついて尾鰭をつけた英雄談を作り上げて発表した。つまり、戦争美談が先にあって名前はあとから当てはめたのである。このラッパ手に該当する兵隊はいるのかと広島第五師団を通して21連隊に問い合わせた所、戦死したラッパ手として白神源次郎の名が帰ってきた。この話ははたちまち有名になり、新聞報道され、錦絵になり、歌も出来た。白神源次郎は庶民の英雄となり、国民の戦意は高揚し広報作戦は大成功だった。

白神源次郎がどのような人物であったかというと、元は高瀬舟の積越人足であったが、徴兵されて岡山21連隊でラッパ手となった。分隊ラッパ卒というのは戦闘部隊ではあるが実際に武器を持って戦うわけではないので兵隊の中でも軽く扱われ、二等兵が当てられる。兵役中白神の力強いラッパはかなり評判が高かった。21連隊のラッパ手と言えば白神の名前が出てくる存在であった。どうせ誰も戦死の現場でラッパの位置を確認したわけでもないので、21連隊の戦死したラッパ手として問い合わせがあれば、白神の名前が返ってきたのも当然であろう。白神源次郎は徴兵され訓練を受けただけで満期除隊したのだが、日清戦争が始まり再び予備役召集を受けた。このとき27歳で1等卒であるからもはやラッパ手ではない。白神は戦闘員として戦死したものの一人だ。

白神は成歓の戦で戦死したがラッパ手ではなかったと言うことは直後から言われていた。陸軍としてはもともと誰でも良かったのだから、白神の名でどんどん宣伝した。しかし、戦争が終わって公式戦史をまとめる段になって困ったことが起きてしまった。広島第五師団の大島旅団が仁川に上陸して最初の戦闘である成歓の戦では、前日から続く雨のため道は水田と区別がつかぬほど水にあふれて行軍が難航した。佳龍里 で待ち伏せしていた清国兵の小屋からの狙撃で戦闘が始まり、結局清国軍を蹴散らしたのだが、夜間で視界が遮られ、運悪く水溝に落ちて23名が溺死してしまった。白神もその中にいたのである。溺死ではラッパの吹きようがないではないか。

戦闘中のことだから溺死であれ弾丸死であれ名誉の戦死で良さそうなものだが、そうも行かない事情があった。佳龍里で戦死した敵兵は将校1、兵卒20でしかない。35名が死んだ日本軍は溺死した23人を戦闘外としないことには、初めての本格的戦闘で負けたことになる。清国軍が巧妙な待ち伏せで打撃を与えてさっと引き揚げたと言うのでは困るのだ。実際、清国側の戦闘記録ではそのような記述になっている。23人の溺死は、当初の戦闘詳報では隠していたが、結局公表することにした。このため白神源次郎の扱いも変えなくてはいけなくなってしまった。

日清戦争における兵卒の扱いはひどいもので、どの戦闘詳報を見ても兵卒の名前は出てこない。防衛省防衛研究所は当時の手書きの戦闘詳報を保持していて、今では○秘資料も公開されているが、将校については戦死の情況などが書かれていても、兵卒は単なる数でしかない。もちろん、ラッパ手の記述はどこにもない。白神源次郎の話は「日清戦争軍人名誉忠死列伝」(尚古堂,明27)にも出てくるし、通俗本にもなっているのだが、著者も資料がなくて書きようがなかったのだろう、中身は隊長松崎大尉や大島旅団長のことばかりになってしまっている。もともと何も書いてないのだから戦闘詳報で名前を取り違えたなどということでも、もちろんない。

さすがに、8月15日になって旅団から正式に出した戦死者名簿には兵士全員の名前が載っている。第五師団は同じ日に戦死したラッパ卒木口小平の名を見つけ出して、「諸調査の結果、かの喇叭手は白神にあらずして木口小平なること判明せり」と一年後に発表し直すことになったのである。そこで今まで誰も知らなかった木口小平の名前が急に出てきた。白神は溺死だが木口の方は確かに弾に当たって死んでいる。屍体検案書もあって、「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後方力に向かひ深く侵入せる創管を認む」だから即死で、息も絶え絶えに喇叭を吹きつづけたなどということはありえない事もわかる。

「日清戦争名誉戦死者人名録」(明治28年、金城書院)にも、白神など1000人ほどの名を網羅しているにもかかわらず、木口の名はないから、木口の戦死については全く噂にもならなかったようだ。一度発表して有名になってしまったものを誰も知らない二等卒に取り替えるのは容易ではない。7年後になって国定教科書を作る時点で書き換えを無理やり断行することになった。無論、後の小国民は最初から木口小平だったとして暗誦させられることになった。

戦死と言っても鉄砲玉に当たるばかりではない。成歓の戦では21連隊の戦死者35名のうち白神源次郎を含む23名が溺死だった。日清戦争全体でも日本軍の死者は13488人だが、本当の戦死はその一割にもみたない。11894人が戦病死で、コレラ5991人、赤痢1660人、チフス1326人になっている。台湾出兵での病死が大きい。日本軍はこの当時から一切補給を行わず、食料は略奪による現地調達を最初から決めこんでいた。せっかく略奪した馬に逃げられたと言うことで責められ、白神たちの大隊長古志少佐は戦闘の前に自殺している。これも指揮の乱れで溺死者を出した原因だろう。補給の無い戦場で下級兵卒の苦難はひどいものだっただろう。だからこそ、英雄木口小平が必要だったわけでもある。

「終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ卒」と言う意味では実は白神も木口も当てはめようがない。日清戦争は1894年8月1日に宣戦布告であるから、二人が戦死した1894年7月29日の成歓の戦は公式には戦争が始まる前の小競り合いでしかない。しかも戦闘が始まるやいなや戦死してしまったのだから全軍を励ますどころではない。あえて当てはめるなら平壌戦まで戦って死んだ21連隊のラッパ手、船橋孫市と言うことになるだろうが、そのような訂正はなかった。戦争美談というのはこのようにいい加減なものではある。

後日名誉の戦死を大いに称えられたたが、木口も白神も実は何の恩賞にもあずかっていない。当時は、戦死で一階級特進等と言う制度は無かったし、勲章も死後には与えられなかった。一方、内地から出撃を命じただけの第五師団長野津道貫は戦功で男爵となり、年額千円の恩給を受け取るようになった。昔から戦争で得をするのは偉い人、損をするのは庶民と決まっている。
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コメント 2

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大変面白い話を読ませていただきありがとうございます。
随筆体になっておりますが、
失礼を承知で申し上げますと
資料の引用関係をはっきりさせればより批判に耐えうる主張となるかと思います。

よろしければ、文書中で明記していない資料などありましたら教えていただけないでしょうか
by (2015-11-20 14:52) 

おら

コメントありがとうございます。そうですね。学術論文なら引用文献をしっかりと書かないといけないのですが、言葉の流れに沿って、読みやすいように書いてしまった傾向がありますね。公文書館・アジ研にある公開文書は、いちいち書き出すと数が多くて、大変です。「日清戦争・成歓の闘い」もあわせて読んでいただくと文書の関連も多少わかりやすいかもしれません。

文献として挙げておくべき本としては、「ラッパ手の最後―戦争のなかの民衆」(1984 西川 宏)があります。この本に触発されたところが大きいと思います。
by おら (2016-01-22 23:55) 

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