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文字使用の始まり [歴史への旅・古代]

日本に文字文化が生まれたのはいつごろのことだろうか。日本書紀では、応神天皇の15年(285年)に百済から王仁が『論語』と『千字文』をもたらしたのが公式な漢字の伝来となっている。『古事記』的に120年ずらせば405年だが、青銅鏡や剣に文字が現れていることから、実際はもっと早いと言うのが大方の見方だ。

だが、僕はもっと遅いと見ている。『千字文』の成立は518年頃であり、日本書紀の記事はそもそがもおかしい。『千字文』と言うことであれば、518年以降になる。読み書きすなわち文字文化の普及に筆と紙は不可欠だ。平安時代になってからでさえ木簡が使われたくらい紙は貴重だった。木簡や粘土に刻み込みでは長い文章はありえないし、習得のためには練習がいる。その意味でも、上層部の限られた人にあっても、文字使用はもっと後、紙が作られるようになってからであると考えるのが順当だ。

紙は仏教伝来と共に日本に持ち込まれてはいたが、紙の製法については、日本書紀でさえ610年に高句麗の曇徵がもたらしたものとしている。610年には紙の有難味が理解される状況だったと言うことは、それより少し前に一応文字が使われるようになっていたことを示すのではないだろうか。6世紀末の事である。

文字だけについていえば、仏教伝来以前、三世紀の銅鏡にも見られるが、字画の左右が反転したり、記号的なものと混用されたり、単なる模様として使われていることが明らかなものがある。文字が文字として機能していなかったことがわかる。文字があることだけで文字使用と考えるのは早計だ。文字は存在したが使われてはいなかった。卑弥呼は魏に使いを送って上表したと言うが文書は携えていなかった。魏志倭人伝は使者の尋問記録である。外国との交流は必ずしも文字を使ったものではないのだ。

中国文献に通信文が残っているから倭の五王(413-502)は、朝貢に書面を使ったと考えられるが、これで文字が使われていたとするのも早計である。まともに書いた国書ならば、一番大切なものは王の署名のはずだから、一文字名で代用したりするはずがない。中国風の一文字名を使ったりしているのは、まだ日本には文字で書き表した名前がなかったからだ。おそらく丸投げして渡来人に適当な作文をしてもらったのだろう。大王は文書の内容も関知してもいなかったことが伺われる。倭の五王に関しては日本に一切の記録がないのである。中国への朝貢には中国風の一文字名が必要だったなどと理由付けするのは、こじつけである。匈奴の王は呼都而尸道皋若鞮単于などといった長ったらしい名前も書いている。

倭の五王に限らず、卑弥呼や難升米といった名前も現代の感覚からすると随分変わった名前だ。日本語自体が文字の導入で大きく変わったはずだから、当然名前についても文字使用以後とは異なる。記紀を古文として文語体で読み下しているが、文語体自体が文字が使われ出してから発明されたものだ。文字使用が始まる前の日本語は口語だけのはずだが、それがどのようなものであったかも今では定かではない。

稲荷山古墳出土鉄剣に115文字の象嵌があったことから、471年には、ある程度文字が使われた事が確実だと言う主張がある。しかし、これは無内容な吉祥文でしかない。文字を書いた張安は製作にも発注にもかかわりなく、文字を書くことだけで名を残しているのだから、文字を書くことがどれだけ珍奇な事だったかがわかる。勝手な書き込みを許し、裏字や嘘字が含まれていても、それをそのままにしていることから、発注者である鉄剣の所持者及びその周辺の高貴な人々は誰も文字が読めなかったと言うことになる。

417年にはまだ文字は「あった」が「使われて」いなかったのだ。そもそも417年というのは獲加多支鹵大王(エッカタシロ wuekkatachilo)をワカタケルとする無茶苦茶な読みで大和天皇に当てはめたもので何の根拠もない。そんな読みをして斯鬼宮を大和国 師木嶋大宮とするのだから驚く。稲荷山の近くには栃木市 磯城宮があるのである。

656年に書かれた隋書には、「文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ」と使者の報告が書かれている。隋代(581年 - 618年)初期にもまだ文字は、使者が接触した日本の政権中枢にさえ普及していなかったことがわかる。旧唐書には「すこぶる文字あり」と書かれているから、勝手に未開国と決めつけたわけではなく現実を見ている。この変化、つまり日本での文字使用の始まりは、このことからも、おおよそ6世紀の後半以降と言うことになる。

確実にある程度の文字使用が認められるのは、7世紀の始めだ。遣隋使は国書を携えて海を渡ったからこの時には文字が使われるようになっていた。この時代でさえ、多利思北孤といった奇妙な名前が自らの署名として中国に伝わっているからまだ過渡期だ。聖徳太子などといった漢文調の名前も記紀編纂時代に作られたものだろう。「法苑珠林第38巻」には、遣隋使として日本から来た会承との問答が載っているが、阿育王の仏塔が日本にも作られたかとの問いに対する答えは「彼国文字不説无所承据」。文字がないから記録がないという証言だ。歴史書などはないから会承は自分の見分として文字がないことを述べているのだ。それは遣隋使派遣からそう前のことではないはずだ。

以上のことから、無文字文化から文字文化への変化、すなわち文字使用が始まり、文語体の日本語が形成され、日本に国家が形成されたのは、倭の五王以降で、遣隋使以前すなわち6世紀の末ないし7世紀の始めだと思われる。

文字使用の始まりがこの頃であることの根拠は他にもある。記紀の記述で事実と確認できる最古のものは、推古28年(618年)のハレー彗星だ。天文軌道計算をさかのぼると日本書紀の記述と見事に一致する。この時代には記録を残すすべがあったことを示している。前代未聞の大事件として記録されているが、ハレー彗星はその80年前にも地球に接近したはずだ。当時の人がだれもそのことを知らなかったというのだから、その80年前には何の記録もなかったということだ。文字使用の始まりは538年から618年の間である。

少しづつ広まっていった文字の使用は、読み手書き手の数が一定整ったある時点で爆発的に使われだす。僕は1992年からEmailを使っているが98年頃までなかなか普及しなかった。広まり出したらあっと言う間に隅々まで広がった。メールの普及には10年もかからなかったのである。文字の使用についても、おそらく急激な普及があったに違いない。文字による文化革命は急激なものだったはずだ。

文字の普及は、国家機構の形成と同時進行する。それ以前には、いかなる命令も声の届く範囲に限られていたし、口約束だけで物事を決めなければならなかったから、族長の支配はあっても国家と言えるような組織ではあり得ない。文字使用の始まりは革命とも言うべき変化であり、その時期を特定することは非常に重要だ。

国家に至るまでには、その準備期として、何代かの政権交代や権力統合があったはずだが、その経過が文字で記録されることはなかった。文字によらない口承や記憶はあやふやなものである。現代でも、自分の祖々父が何をしていたかを聞いている人がどれだけいるだろうか。

記紀を読み解く前提として、いつから文字の使用が始まったかが大きな論点のはずだが、それについて論じたものは少ない。記紀はまるで昔から文字や国家があったかのように装って読み手をたぶらかしていることに注意する必要がある。
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731部隊とHIV感染 [歴史への旅・明治以後]

日本でのHIV感染・エイズは血液製剤から始まった。血友病患者に投与した血液製剤にHIVウイルスが含まれていたからだ。危険を知りながら売り続けたミドリ十字という会社の悪質性が問われ、さらにこの会社に731部隊関係者が多かったことが知られている。人体実験をいとわない残虐性から、さもありなんと思われるのだが、どういった経緯で731部隊がHIV感染を引き起こす血液製剤に結び付いたかは、あまり語られていない。ミドリ十字に731部隊関係者が多かったのは偶然ではない。

戦争での兵力の損傷は敵の弾に当たるだけではない。日清戦争の統計が明らかにされているが、戦死1417名に対して戦病死が11894名もある。体力を消耗した状態で伝染病に罹患することが多かったからだ。伝染病は敵の弾より怖かった。だから清涼な飲料水を確保して防疫に勤めることは作戦上きわめて重要なことであった。そのために軍隊には軍医部とは別に防疫給水部が置かれた。

陸軍は20余の師団の集まりを方面軍としてまとめ、そこに軍医部とか情報部とかいった直属の部隊を置いた。普通、師団長は中将、直属部の部長は大佐かせいぜい少将である。ところが関東軍の防疫給水部(731部隊)の長・石井四郎だけは中将であり、師団長並みの階級を持っていた。軍医のトップ、軍医総監と同じということになる。

なぜ石井だけが中将なのか。実は石井が率いていたのは、各方面軍を横断した生物兵器・細菌戦の秘密組織なのである。残虐な細菌戦は国際法にも違反しており公然とやるわけには行かなかった。戦局不利な日本軍は生物兵器、化学兵器に活路を見出そうとしていたのだ。関東軍防疫給水部は隠れ蓑に過ぎない。

裏組織が形成され、実際には各方面軍の防疫給水部は石井が取り仕切っていた。一般に731部隊と言われるが、南方軍の9420部隊や南支邦の8604部隊も石井の配下だったのだ。各地の防疫給水部を連絡する役割は軍医学校・防疫研究所にあり、ここで石井の秘書的な役割を果たしていたのが後にミドリ十字の社長になった内藤良一である。

731部隊の隊員は戦後、細菌戦や人体実験などの証拠を隠滅して内地に戻ったが、戦犯を逃れるために組織的な連絡を続けた。内藤は経歴的には731部隊に属したことはなく、英語に堪能だったのでGHQに入り込み、細菌兵器の調査にかかわることになった。内藤を通訳としたサンダース中佐らの調査は731部隊に筒抜けになっており、石井らは追及の手を逃れた。翌年にはトンプソン中佐らが調査して731部隊の存在などが明らかになったが、内藤の工作で結局731部隊は戦犯にならなかった。研究資料との引き換えで取引されたのではないかと考えられている。

防疫給水はどの軍隊でも必要であり、極東米軍でこの任務を担ていたのは406部隊だった。406部隊が731部隊に結びついたきっかけはジフテリア禍事件だろう。近年、「ジフテリア禍事件----戦後史の闇と子どもたち」(かもがわ出版)が出版され、このことが初めて明らかにされた。伝染病地帯に上陸する事になった米軍部隊の防疫のため、早急な予防接種が必要になった。米軍の要請に答えて、治験なしで早急な予防接種薬の製造を引き受けたのが戦犯を逃れた731組織だ。人体実験で培ったチフス防疫で実績を示し、当時まだ日本では作られたことのないATPジフテリア予防接種薬を作ることになった。

このジフテリア予防接種薬が84名の子供たちを殺したのがジフテリア禍事件である。世界最大の予防接種事故でありながら、事実は長らく隠蔽されてきた。「日赤医薬学研究所」というのが製造会社だが、所長は病気休職、副所長は日赤の医師で非常勤といった具合に実体がない。「日赤医薬学研究所」の実質は731組織が担っていたのである。

接種薬には原料病原菌を「北京系」と表示している。731部隊の作山阮治中佐が終戦間際に中部方面軍司令部に移動しているが、この時ジフテリア菌、チフス菌を持ち帰ったと思われる。中部方面軍管轄にあった大阪八連隊の兵舎は一時米軍が接収したのだが、返還された。ここに「日赤医薬学研究所」が設置され、元731の技術者が集められた。日赤を冠しているが実体は赤十字社との関連はない。

仕掛け人作山阮治の名は「日赤医薬学研究所」発足後すぐに見られなくなっているから、あるいは死んだのかもしれない。その後は、むしろ予防接種を実施した京都府衛生部や京都微研、厚生省予防局が主導していたようだ。ジフテリア禍事件の経過をみれば、これらが互いに連絡を取り合っていたことが明らかである。接種薬の製法は米軍406部隊を通じて伝授されたはずだ。ここに米軍406部隊と旧731部隊の関係が生まれた。

事件発生後、残留予防接種薬のかなりの部分を406部隊か接収している。GHQ文書には49本の接種薬が本国に送られたことを示す電文がある。その後406部隊は朝鮮戦争に備え日本から朝鮮半島に移動した。朝鮮戦争では、飲料水は空輸されるようになり、防疫給水の任務は薄れ、変わって輸血が406部隊の中心課題になった。輸血用の血液を確保するために日本にも血液を買う組織を作ることが要請された。

406部隊からの要請に答えて京都府衛生部、京都微研、日赤医薬学研究所の面々が集まってできたのが「日本ブラッドバンク」であり、その中心になったのが内藤良一だった。一般医療としても輸血が多用されるようになり、売血が盛んになった。しかし、血を売って生活する貧困者に頼った血液採取は品質が悪く、感染事故も起こり、やがて禁止されて、今では献血が制度化されている。

日本ブラッドバンクは、売血で集めた輸血用血液を利用して血液製剤を作るようになり、「ミドリ十字」と社名を変更した。「ミドリ十字」は731部隊によって生まれ、人体実験をもいとわぬ残虐性も引き継いだものだったのである。これが、731部隊から血液製剤へ、さらにHIV感染被害という流れの来歴である。
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人間魚雷 回天の悲劇 [歴史への旅・明治以後]

第二次世界大戦中、大日本帝国は人間魚雷回天を使った攻撃を行った。イスラム国同様の自爆兵器である。搭乗員は志願して出撃したのだから、死ぬこと自体は必ずしも本人の意に反することではなかったかもしれない。しかし、全く無駄な死に方をしなければならなかったのは悲劇である。

魚雷は多量の爆薬を積み、一発で巨艦を沈めることができる強力な武器だが命中率が低い。瞬時に敵艦に届くわけではなく、何分後かの敵位置を予測して発射するしかないし、接近を探知すれば急旋回をしたり砲撃をしたりして魚雷を避けることも出来るからだ。もし、人間が操縦しておれば、軌道修正して確実に命中することができる。敵空母の数隻も沈めれば形勢は一挙に逆転する。そういった軍の安易な発想を現実にしてしまったのが回天である。

実際には目論見どおりに行かなかった。148基の回天が出撃したが、99基が母艦とともに沈没したり、整備不良で発進できなかったりした。敵艦に近づいて発進できたのは49基だけで、大きな獲物は捕らえられず、給油艦一隻、揚陸艇一隻、護衛駆逐艦一隻を沈め、数隻を小破しただけに終わった。防衛研究所による計算では命中率は2%であったと言うことだ。

回天は九三式魚雷を人間が操縦できるようにしたものだ。この魚雷はエンジンを空気ではなく純酸素で燃焼させると言う高度な技術を使ったもので、日本が唯一実用化していた。高出力になりしかも航跡ができない。燃料が燃えても水と二酸化炭素ができるだけで、二酸化炭素は水に溶けるから空気の気泡が発生しないのだ。

直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、48ノットで疾走する。しかし、酸素は少しでも油があると爆発させるし、火が付けば鉄をも燃やしてしまう。取扱いが極めて難しく、船上での整備が難しかった。これが各国が使用をためらった理由なのだが、日本はなんとか実用に持ち込んだと言う。しかし、実際には整備不良による事故も頻繁であった。回天も訓練中にすでに15名の搭乗員が事故死することになったし、母艦から発進できなかったものも多い。

九三式魚雷に操縦席を付けて人間魚雷にすることは実は簡単ではない。魚雷の本体に外筒を被せて一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けなければならない。重量と推進抵抗が増えるので、48ノットであった最高速度は29ノットになってしまった。当時の駆逐艦は35ノットくらいの速度だったので、艦速よりも遅い魚雷ということになってしまう。

外筒の厚みが薄いと水圧に耐えられないが、分厚くすると重量も増える。結局水深80mが限度と言うことになった。これは母艦である潜水艦の行動を大きく制約する。母艦が深く潜れなくなってしまったことで敵艦に近づくことが難しくなってしまったのだ。

多量の爆薬を積みながら小破で終わることが多かったのは、逃げる標的と似たような速度では、「突っ込む」ことにならず、側面接触になるからである。側面接触の場合手動で自爆するがもちろん効果は小さい。このように回天は技術的にすでに無理がある兵器だった。それにも拘わらず出撃させたのである。

この速度では航行中の敵艦への攻撃が難しいことは意識されていたから当初は敵基地に侵入して停泊している艦船を狙うものであった。ところが泊地への潜入も極めて難しいと言うことがわかった。小さな船体だから揺れが激しい。潜って視野の狭い潜望鏡を覗いていたのでは、自分の位置すら把握できないし、入り組んだ湾に潜入などできるものではない。

航行している敵艦を狙うとすれば、艦砲の届かない位置、20㎞も離れたところから「発射」されなければならない。回天は潜水艦の外側に取り付けられており、一度浮上して乗り込む必要があるからだ。20km離れていると高いマストに登れば見えるが海面位置ではもちろん敵艦は見えない。ジャイロコンパスを頼りに方角を定めて近づいていく。ある所で潜望鏡を上げて敵艦を発見せねばならないのだが、揺れと視野の狭さでこれがなかなか難しい。ぐずぐずしているうちに見つけられて砲撃されて沈没することも多かった。敵側は望楼から何人もで監視しているし、浅く潜ったところで航空機からは丸見えである。

回天は軽量化のため脱出装置を持たず、所定時間を過ぎるとガスが充満し、呼吸できなくなるので一度出撃すればどっちみち死ぬしかない。敵艦を見つけられなかった場合には秘密保持のために自爆する。45分以内に爆発音が聞こえたら攻撃成功と判断したらしい。多くは45分以後の爆発、つまり単なる自殺に終わった。結局、なんとか発進できた49基のうち敵に邂逅できたのは8基だけだし、当初の目論見どおりに突撃できたのは4基に過ぎない。

自分の身を犠牲にして戦ったと言うことになってはいるが、現実には単なる自殺である。これは戦死全般の現実でもある。戦死と言えば鉄砲を打ちまくり、奮闘の挙句に自分も弾に当たって死ぬといったイメージを持つが、現実には、ほとんどの兵士が、一発も弾を撃たず、その前に死んだ。

輸送船の船底に詰め込まれたまま沈んだし、無理な行軍の過労で簡単に病死した。アメリカ軍が上陸前に行った爆撃・砲撃で多数が死んだ。太平洋戦争では餓死が圧倒的に多い。徴兵されて南方に行かされて死んだ兵士140万人のうち実際に一発でも弾を撃ってから死んだ兵士は1%もいない。回天だけが悲劇だったわけではない。

これは太平洋戦争が負け戦であったからではない。終始日本軍が優勢だった日清戦争ですら戦傷死が1417人に対して戦病死が11894人もいる。9割が戦病死だった。戦争に行くということは戦わずして死にに行くと言う事なのだ。戦争とはいかに愚かなものだろうか。戦争は、「やらない方がいい」などと言う程度のものではなく、絶対にやってはならないことだ。



回天による全攻撃成果(出撃148基、発進49基)
1944年11月20日:給油艦ミシシネワ撃沈
11945年7月24日:駆逐艦アンダーヒル撃沈
1945年1月12日:歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
1945年1月12日:輸送艦ポンタス・ロス小破
1945年1月12日:弾薬輸送艦マザマ大破
1945年1月12日:戦車揚陸艦LST225小破
1945年7月24日:駆逐艦R・V・ジョンソン小破
1945年7月28日:駆逐艦ロウリー小破
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九州王朝のつまづき [歴史への旅・古代]

九州なのか大和なのかをめぐる邪馬台国の論争は古くから続いているが、近年は九州説が優勢なようだ。九州説が有力となったきっかけは古田武彦さんの「邪馬台国はなかった」に始まる新しい考察の登場だろう。三国志を読み解くこの新しい視点は多くの人々を魅了した。しかし、古田史学自体は『東日流外三郡誌』で大きく躓いて、一挙に信用を失なうことになった。なぜ古田さんは、このような偽書の罠に陥ってしまったのかを考えてみたい。

邪馬台国論争に参入した古田さんの主張によれば、従来の説に欠けていたのは資料批判である。松下見林以来、日本書紀に従い、日本の中心地は大和以外にあり得ないことを前提として中国文献もそれに合わせて読み取るということが行われてきた。まったく合理的とは言えない考え方が長らく史学を支配しており、誰もそこから踏み出せていなっかったという鋭い指摘であった。

魏志倭人伝には邪馬壱国と書いてあるのに邪馬台国と読むのはヤマトにつなげるためである。邪馬台と書き換えても、用例を調べれば、ヤマトとは読めないのだから、改竄読みに意味はない。にも拘わらず、九州論者も含めて邪馬台を山門に比定したりして、古代日本にはヤマト以外にあり得ないという呪縛に捉われてしまっていたのである。

確かにこの指摘には説得力がある。これまでの視点はあまりにも不合理だ。しかし、よく考えてみればこれは「資料批判」ではない。むしろ資料を安易に間違いとして正すことに対する批判であり、魏志倭人伝をそのままで受け入れると言う立場だから「反資料批判」である。魏志倭人伝の一字一句を信頼し、語句の意味を丁寧な用例調べで読み解いて行くのが古田さんの手法だ。

正確な読み解きをすれば、当然、日本書紀とは一致しない。しかし、古田さんは日本書紀の嘘を解明するという方向には進まなかった。むしろ日本書紀の字句をも信頼するのである。辻褄合わせのために、魏志倭人伝や随書はヤマトではない別の王朝の記録であるとし、日本書紀は別の王朝の歴史を盗用したものだとした。これが九州王朝説なのである。

歴史学の書としての日本書紀の最大の問題は社会発展という概念を持たなかったことだ。紀元前660年が石器時代であることを述べず、記紀編纂の時代と同じような「王朝」を記述する。中国から文字が伝わったとするが、その前もその後も社会は変わっていない。社会の変遷ということが抜け落ちている。

古田さんの九州王朝もこの点では日本書紀から一歩も出ていない。社会発展の分析抜きで、資料の字句にこだわった論考に終始している。だから、3世紀も5世紀も7世紀と同じような「王朝」しか考えられない。発展概念がない歴史観というのが古田史学の決定的な弱点だったのではないだろうか。本当の資料批判に至らなかったのはそのためである。

資料批判ではなく反資料批判であったことが偽書に騙されるもとになった。明治以降の造語が散りばめられていたりするのは誰が見ても偽書だ。古田さんは三国志であれほと稠密な考証を行ったのに、『東日流外三郡誌』に対してはまったく無批判だった。それは、『東日流外三郡誌』があまりにもボロだらけで、考証に至るものではなかったからだ。三国志のような理知的に書かれた資料だけを相手にしていた古田さんにとって、あまりにも勝手の違うものであった。

翻弄された結果『東日流外三郡誌』は九州王朝説に即して、誤謬を正して読めばよいということになった。これは松下見林が三国志を読んだと全く同じ誤りである。その動機は、九州王朝説の擁護にあった。九州王朝しかありえないという信念が先行したからである。古田さんは先鋭な大和王朝批判を展開し、その歯切れよさも魅力ではあったが、結果的に攻撃も受けることになった。それで過剰防衛が生まれたのかも知れない。

自説を展開する場合、もちろん他説との容赦ない論争は必要である。しかし、内心では自説に対する冷ややかな目を失ってはならない。言うは易し、ということだろう。
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古事記と日本書紀のなり立ち [歴史への旅・古代]

記紀の成り立ちを考える前提として文字の使用がいつ始まったかが重要であるが、これに言及する人は少ない。文字を獲得した国家が最初にやることは自らの正当性を担保する歴史の編纂である。記紀以前にも何らかの書物があったかもしれないが、そう古いものではなかったはずだ。政権は長期にわたって勝手な歴史記述を許したりしない。

文字の使用が本格的になったのは500年代の末だと考えられるが、断片的な記録としては雄略期にさかのぼることもあり得る。日本書紀が巻14の雄略記から書き始められていることは、近年の文体研究ではっきりしたと言える。それ以前の部分がβ群であり、雄略記はα群に属す。これまでも、雄略記は古い儀鳳暦を使い、その前の部分が逆に新しい儀鳳暦になっていることや、巻13に巻14の引用があったりすることから、日本書紀は雄略記から書きだされたとは言われてはいた。

日本書紀の執筆が雄略記から始められた理由は、想像でつなぎ合わせたものであったにせよ、それがおそらく当時さかのぼることのできる最古の伝承だったからだろう。それ以前はまったく資料がなく書きようがなかったのである。神代から雄略までは、β群として、後代に政治的に付け加えられた完全な創作神話であると考えるべきだ。

日本書紀によれば、歴史書編纂は681年に天武天皇のもとで開始された。川島皇子・忍壁皇子を筆頭に大臣級の編集委員を定め、中臣連大島と平群臣子首を執筆担当者に指定して始まった。しかし、当然、資料不足だから順調には進まなかった。持統天皇の代、691年には、18氏に対して、氏族の墓記を提出させている。各氏族はそれぞれに先祖の業績を伝えていたからだろう。それらは、互いに矛盾する内容になっていたであろうし、まとめるどころか、更なる混乱に陥ったにちがいない。

その後、歴史編簿がどうなったかの記事は日本書紀にはない。続日本紀には720年の記事として、舎人親王が歴史書の完成を報告したことが書いてある。30巻物であるから、これが現在伝わる日本書紀であることは間違いない。39年を費やしたことになる。39年というのは、、天武天皇から命ぜられた人々が、そのまま完成させたと考えるには長すぎる年月だ。

続日本紀には、713年に諸国の風土記を撰進させたことが書いてあり、714年には紀清人と三宅藤麻呂に国史を撰する旨の詔が下されている。紀清人は五位の下級貴族、三宅藤麻呂は七位の下役人である。下役人の名が歴史書に出てくるのは珍しい。この二人が編集の実務担当者であった。八世紀になって仕切り直しで新たな編纂が始まったことになる。これが720年の史書完成につながった。

史書は一つではなく、もう一つ古事記がある。古事記の方は、その成り立ちを序文に書いており、やはり天武天皇が命じたのが発端であるとしていて、712年元明天皇の時に、稗田阿礼が「誦習」していたものを、太安万侶が校閲して四ヶ月で完成した。歌謡なども入れて物語風になっている。書紀よりも八年早く完成したことになる。大筋では両者の記述は、似たようなものだが、表現には大きな違いがあり、言葉使いはことごとく違うと言っても良い。

この二書の関係が大きな謎である。国史編纂を同じ時期に二つも命じるというようなことが、あり得るのだろうか。八年前に完成していたはずの古事記に、日本書紀は全く言及していない。続日本紀にも古事記に関する記事は全く出てこない。古事記の編纂については、序文で語られているだけで、他に一切の歴史記録がないのである。

こういったことから、古事記偽書説というのが古くからあり、賀茂真淵が言い出している。日本書紀には九世紀の写本があるし、完成直後から宮中での講義が行われているのに対して、古事記の写本は一番古い真福寺本が1320年であり、完成から600年後のものだ。完成から百年も経ってから弘仁私記に初めてその存在が記述された。百年もの間、読まれた形跡がないのだ。

古事記の序文というのは内容的には上表文になっており、用命天皇にこの書物を献上した経緯が書いてある。四字句や六字句を多用する華麗な文体(四六駢儷体)であるが、これは、文選などをお手本にしている。最後を「誠惶誠恐、頓首頓首」で結んでいるが、これは進律疏表にある唐の儀礼言葉で、日本では平安時代に用いられたのだから、712年ではおかしい。

こういったことが、古事記は後世に書かれた偽書ではないのかと疑われた理由だ。しかし、だれが何のために上中下三巻の大作の偽書を作ったのかが理解できない。筋書きとしては、日本書紀とほとんど同じであり、何か別の事を伝えようというものではないからだ。稗田阿礼とか他の文書には出てこない怪しげな人物の口承であるとか、五位の下級貴族に過ぎない太安万侶が著者だということも、国家事業らしからぬ経緯だ。しかし、太安万侶の墓碑が見つかり、編者の実在性が確認されるに及んで、偽書説は勢いがなくなっている。

決定的なのは、上代特殊仮名遣いである。古くは日本語に八種の母音があったことが知られているが、これは徐々に消えて行き、現代の五母音になった。音の違いで漢字を使い分けることが行われたが、古事記本文は、日本書紀よりもはっきりと使い分けが行われており、特に「モ」に二種あることがわかった。古事記のほうが、古い文章でなければならない。序文だけは、後から付け加えられたものであると考えるしかない。

(1)古事記本文、(2)日本書紀α群、(3)日本書紀β群、(4)古事記序文というのが執筆の順序ということになる。同時代に二つの歴史書が進行したという矛盾を解決する解釈として、古事記は日本書紀編集の途上で書かれた下書き、あるいは草稿であった考えるのが妥当だ。

歴史の書き出しは世界の創生から始まるのだが、各氏族にはそれぞれの信仰や伝承があり、一致することは難しい。政権は氏族連合であり、お互いの思惑や利害を協議しながらの執筆には時間がかかる。下書きのようなものをまとめて行ったのが古事記の原型である。その事務局を担ったのが五位太安万侶と稗田阿礼だった。実際の文章は呉音表記に長けた百済人などを動員した。

神話の調整に手間取る間にも、文字の普及は進み、様々な記録が生み出されるようになってきた。統一見解を急がねばならない。継体期の混乱を隠し天皇の正当性を確保するために、ある程度資料もある巻14雄略記から先行して書きだすことになった。漢音表記の編年体など正史としての体裁も取り入れた。紀清人と三宅藤麻呂を新たな事務局として任命し、続守言、薩弘恪など白村江から連行した唐人に漢音表記で文章を書かせた。これが日本書紀のα群である。

α群の著述と並行して進められてきた神話部分の調整がまとまり、太安万侶たちの事務局から草案が示された。単なる草案であったのだが、これが後世古事記として世に出ることになった。万世一系で神から天皇へ続けることや、出雲系の神話も取り入れた構成にすることなどを議論し、神武天皇のあと欠史八代でつなぎ、神功皇后を卑弥呼に対応させるなどの基本的事項は承認された。武烈以降が系譜のみになっているのは、すでに日本書紀のα群で記述がなされているからである。

しかし、この草稿は古い呉音表記のものだったし、編年がなく正史としての体裁を欠いていた。だからそのままでなく、この草稿を取り入れ、天皇をさらに神格化して新たな体裁で書き直されたのが日本書紀のβ部分である。同じプロジェクトの内部での下書きなのだから、もちろん引用文献には挙げられない。草稿自体は事務局の太安万侶が保持することになった。

安万侶が下書きを保持しており、それが子孫に伝わっていった。百年後、弘仁年間に行われた歴史講義で博士を務めた多人長は安万侶の子孫である。講義の中で古事記を持ち出したことが弘仁私記に載っている。古事記に序文を付けて世に広めたのは多氏である。多人長は太安万侶が日本書紀の編集にも携わったと紹介している。家伝の書に箔をつけることが必要だったのだ。決して嘘をついたわけではない。用命天皇に下書きが提出されたことは事実だろう。

こうして日本には、記紀二つの初期歴史書が残ることになった。しかし、この影響は日本書紀の編年にも現れてしまった。中国の歴史書を見れば、紀元前にも歴史が及び、漢の時代なのに日本では天照大神ではいかにも信用が薄い。古事記で14代は名前まで決めてしまったから、天皇の数を増やすわけにも行かず、当時でも不自然であるとの懸念はあったが、寿命を引き伸ばすしかなくなったのである。神と人間の中間にある存在だから、平均在位60年の寿命も合理的と解釈したのであろう。

神武天皇の即位を辛酉年としたのは偶然だ。当時入手できるようになった暦法を引き延ばした年代にあてはめて行った結果である。干支は60で繰り返すことを元に日本書紀の年代から実年代への換算を試みている人もいるが、引き伸ばしが先にあって年代を後付けして行ったのだから無理だろう。月齢を表記してしまっているから、60年ずらすことは実際上出来ない。

世に言う讖緯説は、記紀編纂当時誰も知らなかった。辛酉革命の原典も中国文献に見出せず、900年頃になってから三善清行が作り上げた俗説である可能性が高い。三善清行の讖緯説は逆に神武即位を論拠にしているから、もし、神武即位が、辛亥であれば、辛亥革命説になっていた代物である。政争の強敵、菅原道真を追い落とすための手段だったに過ぎない。雄略以前は何の根拠もない創作神話なのである。

景初二年問題-----卑弥呼の使いは何時のことか [歴史への旅・古代]

邪馬台国の卑弥呼の事を日本で初めて書いた歴史書は日本書紀である。神功記に「魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して.....」という引用を入れている。ところが三国志魏志倭人伝に実際書いてあることは、景初三年ではなく景初二年に倭の使いが来て帯方郡太守劉夏が卑弥呼の遣いを都に送り届けたと言う事である。日本書紀は引用時に年号を間違ったことになる。

しかし、そのような単純なミスが校正されなかったのはどう考えてもおかしい。この書き換えは意図的なものと考えるべきだろう。万世一系、神国日本という書紀記述はどうしても外国文献との齟齬が生じる。この矛盾を解決するためのごまかしが必要になる。

神功皇后を設定して卑弥呼との関連をにおわしてはいるが卑弥呼だとは言わない。言ってしまうとまた別の矛盾が出てくるからだ。日本のことは諸外国にも知られて文献もあるがそれは十分正確ではなく、ここでの記述と矛盾しても当然なのだよという主張を伝えたかったにちがいない。他の史書を調べて意図的に三国志を訂正して引用したのである。

実際、日本では日本書紀が正しく、間違っているのは魏志倭人伝の方だという事がずっと言われてきた。新井白石も内藤湖南も景初三年説を取っている。その理由は、日本書紀の著者が調べたように、三国志以外の史書、梁書や北史に景初三年と書いてあるし、景初二年では辻褄が合わないことを指摘できるからである。

帯方郡の太守公孫淵は魏帝に歯向かい、景初元年には出頭命令を拒否し、独立を宣言して燕王を名乗った。司馬懿が討伐に向かい、公孫淵を討ち取ったのが景初二年八月二十三日である。卑弥呼の使いが来たという六月はまだ戦闘中で、帯方郡に太守劉夏が居て難斗米を都に連れて行ったなどということがあり得ようはずがないというわけだ。

三国志の序文にも「景初中大いに師旅を興して淵を誅す、又潛軍を海に浮かべ樂浪帶方之郡を収む、而後に海表謐然し東夷屈服す」とあり、帶方郡の支配を奪還したのは公孫淵を討ち取った後のことだと読める。晋書でも「宣帝の公孫氏を平らぐるや、その女王は使いを遣わして帯方に至り朝見し」と女王の朝貢は公孫氏を滅ぼした後のことになっている。

それでは、三国志本文が単純ミスを書いたかというと、それも考えにくい。良く読んでみると帯方郡の支配を取り戻したのは絶対に公孫淵を殺してからだとは言い切れないところがある。序文は2つの文の間を「又」で結んでいる。前後関係は必ずしも確定的ではない。晋書も「平ぐる」と書いているが、これが公孫淵誅殺と全く同じ意味であるとは限らない。

「潛軍を海に浮かべ」という海路遠征のことは魏志韓伝にも載っており、「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡」とある。何年とは書いてないが、「密かに」とあるのは、まだ公孫淵が健在だということを意味する。遼東に進出してきた公孫淵の背後を突いて、海から帶方・樂浪に太守を派遣したのだ。だとしたら、六月に楽浪郡の太守が卑弥呼の使いを受け入れ、都に送り届けることもおかしくはない。まだ遼東では戦闘が続いているが、本拠は魏の手中に落ちていたのである。

楽浪郡の太守が任命されたのはおそらく景初元年だろう。反乱した公孫淵から太守の地位を剥奪したのだから、この時点で次の太守劉昕を任命しなければならないはずだ。実際に魏の水軍が楽浪郡に乗り込んだのはもっと後であるが、司馬懿の遠征よりも早かったかもしれない。司馬懿の遠征軍の出発は諸葛孔明との戦いが終わるまで待たなければならなかったので反乱の一年後、景初二年になってからのことになったからだ。

景初二年六月に卑弥呼の使いが来た時には、楽浪郡の戦闘は終わっており、太守は劉夏に交代していたことになるが、これは戦闘部隊の指揮者としての太守から行政官としての太守への人事異動だと見ることができる。景初三年説なら、二年九月以降に派遣された太守が半年後には交代するというあわただしい人事の理由がない。

景初三年説には、もう一つ問題がある。それは魏帝が難斗米に与えた言葉だ。明帝は景初二年の末に亡くなっているから景初三年に謁見したとすれば、それはまだ八歳の曹芳と言うことになり、誰かの代筆であったとしても、「我甚だ汝を哀れむ」などという表現は全くふさわしくない。使節は明帝に会ったと考えるべきだろう。

公孫淵との戦闘中に倭の使いが来京したことをもって、魏と倭の同盟などというのは考え過ぎである。魏にとって倭国の軍事力などはゼロに等しい。女王国は「使役を通じる所三十国」の一つに過ぎず、倭全体を強力に支配しているわけではなかった。まだまだ部族社会の延長上にあり、「王朝」などと呼べる代物ではない。子細にばかりこだわると社会発展の視点を失ってしまいがちだ。

倭が直接的に朝貢したのはこれが初めてである。それまで倭奴国が朝貢したりしているが、出先機関である帯方郡に詣でたに過ぎない。倭は帯方郡の管轄になっていたのだ。公孫氏が帯方郡を支配するようになってからは、本国に倭の使節の報告もしなくなったから、正史では倭の記録が飛んでいる。この時も、いつものように倭の使節は帯方郡に赴いたが、本国との戦争という事態になっており、新たに赴任した太守が本国に難斗米たちを送り届けるということで初めての直接朝貢が実現した。

帯方郡まで六月に到着しながら明帝への拝謁が12月になったのは、無論、戦乱の影響である。明帝から下賜品を貰い印綬を仮託されたが、このあとすぐに明帝はなくなった。帯方郡から梯儁らの使節が倭に向かったのは、間があいて二年後の正始元年になったが、これは景初三年は明帝の喪に服さねばならなかったのだから不自然ではない。八歳の養子への相続であり政治的にも複雑で改元も行われなかった。

一年だけの違いではあるが、これがいくつかの歴史論争に影響を与える。魏が卑弥呼に与えた銅鏡百枚が出土している景初三年の三角縁神獣鏡であるとする説は、景初二年の朝貢では成り立たない。もっとも、三角縁神獣鏡は鉛の同位体分析からも銘文韻律の不備からも国産であることがほぼ確定したからこの論争はすでに決着済ではある。

資料の信憑性ということにつながることも大きい。三国志を改定した梁書や北史といった後代の書物は、不十分な考察で間違った訂正をしている可能性が高い。この訂正には邪馬壱国を邪馬臺国と書き換えたリ、壱与を臺与にしたりする操作も含まれている。

古代日本の政変と疫病 [歴史への旅・古代]

医薬の知識が全くなかった時代には病気に対して「おまじない」しか打つ手はなかった。伝染病の被害はことさら大きなものであっただろう。しかし、伝染病はどこからか病原菌が伝わってこなければ蔓延しない。実は原始時代には伝染病は多くなかったのではないかとも思われるのである。

一番古い伝染病は結核で、弥生人の人骨からもカリエスが見いだされる。しかし、縄文人にはこれが見えない。結核は移住してきた弥生人が持ち込んだものだ。伝染病が流行するには条件があり、必ずしも病原体がありさえすれば広がるものではない。結核の発生が多くなったのは、産業革命で劣悪な環境の中での長時間労働に人口が集中したことによるものだ。青空のもと野外で農作業に従事する限り、結核が重大な伝染脅威になることはなかった。

咳逆つまりインフルエンザは渡り鳥が運ぶから、どこへでも飛んでいく。日本にも古くからあったに違いない。日本書紀にも疫病のことは早い時代から何度も出てくる。病名は特定できないが、インフルエンザであったことは十分考えられる。

赤痢が文献に出てくるのは、三代実録の貞観三年(861年)であるが、それ以前から痢というから消化器系の病気で、中に死に至るものがあったからこれは赤痢だろう。上下水道が十分でなかったから、都市に人口が集中すれば当然のごとく発生する。そのため遷都が必要になった。しかし、一気に全国に広まり、人口を左右するような爆発的流行は起こらなかった。

人口を減らすような大流行は14世紀の黒死病(ペスト)が知られている。世界人口を4億5000万人から3億5000万人にまで減少させたほどだが、これはネズミを保菌者としてノミが媒介するものだった。中国に始まり、ヨーロッパで爆発的に増殖して世界中に広がった。しかし、日本は流行を免れた。日本に繁殖していたのはヒトノミであり、ネズミとヒトの両方に寄生するケオプスネズミノミが日本にはいなかったからである。

人から人への空気伝染の場合、動物の生態とはかかわりなく、防ぎようもない広がりを見せる。伝染経路としては国際交流がその発端になる。新たな伝染病がもたらされた場合、免疫が皆無だから爆発的な流行になる。南米のアステカ文明が滅びたのもスペイン人が持ち込んだ痘瘡(天然痘)による人口減少が寄与している。

日本でも、最初に起こった危機的大流行は痘瘡(天然痘)によるものである。それまであった風土病的な伝染病や結核では、爆発的な流行は起こらない。インフルエンザも繰り返されてある程度の免疫下地が形成されている。しかし痘瘡に対する免疫は皆無だった。朝鮮との交流が増えて、仏教伝来と時を同じくして痘瘡が持ち込まれ、日本最初の疫病大流行となった。

『日本書紀』敏達天皇十四年(585年)の記事がによれば、膿疱(できもの)が出来て死ぬものが充ち満ちた(發瘡死者充盈於國)。身を焼かれ打ち砕かれたようになり泣きわめいて死んで行く(身、如被燒被打被摧 啼泣而死)という症状の重さを持った膿疱であることと、致死率の高さからこれは痘瘡であると推定されるのである。

これをめぐって、古来神をあがめず仏教などというものを取り入れるからだとする物部氏と、仏像を焼いたりしたから疫病が流行るのだとする蘇我氏の対立となった。大和政権の成立期における一大政争は痘瘡に起因しているのだ。

奈良時代、735年にも大流行があった。流行は九州から始まり(大宰府言。管内諸國疫瘡大發)夏から冬にかけて豌豆瘡(わんずかさ)が流行り、死者を多く出して(自夏至冬。天下患豌豆瘡[俗曰裳瘡]夭死者多)賦役を免除しなければならなかった(五穀不饒。宜免今年田租)と続日本紀は書いている。豆のように盛り上がった瘡だから痘瘡であることに間違いないだろう。一般には裳瘡(もかさ)とも言われていた。

2年後の737年にも再び九州から疫病が流行して農民の多数が死んだ(大宰管内諸国。疫瘡時行。百姓多死)。このときは流行が各地に広がり、平城京でも皇族や政治の実権を握っていた藤原四兄弟が相次いで死ぬという大惨事になった。橘諸兄による政権への移行という転換をもたらした。大流行の2年後には免疫が残っているから、同じ流行が繰り返されるとは考えにくい。疫瘡と言うだけで、豌豆瘡という言葉は使われていないから、これは症状がよく似た麻疹(はしか)であったと考えられる。成人の麻疹は重症化して死亡することも多い。

疫瘡の大流行は平安時代995年にもあって、赤斑瘡(あかもがさ)と表現されている。盛り上がるよりも赤く広がるという特徴に合致するから麻疹である。この時も政権中枢の大混乱をきたした。中納言以上の上達部14人の内8人が死んで藤原道長が一気に政権を握るきっかけとなった。

痘瘡の方が致死率が高く、治ったとしても「あばた面」が残る。麻疹は幼少の時にかかれば軽く済むことも多い。こんなこともあって、痘瘡が最も恐れられた疫病であった。痘瘡には二度かからないことが知られており、軽く患ることで重症を逃れようとする試みはあったが、人痘接種による予防は致死率20%ほどもある危険なものだった。日本でも緒方春朔が試みたりしている。

人間には発症しない牛痘を使って疑似的な毒素で免疫を発現させるという画期的なアイデアで種痘を開発したのはジェンナーであるが、王立学会には認められず、1798年に「牛痘の原因と効果についての研究」を自費出版してこれが普及した。歴史を左右するほどの大病を安全に予防できるようになったと言うのは驚異的な出来事である。1823年に来日したシーボルトによってこの知識は伝えられたが、実際に摂取されたのは1849年にドイツ人医師モーニッケによるものが最初である。痘瘡への関心は非常に高かったから日本での種痘は急速に広まった。日本では1955年以来発生を見ていない。

いまでこそ痘瘡は絶滅した病気だが、日本史においては何度も歴史を動かす決定的な要因として働いたのである。

謎の4世紀を考えるーー騎馬民族の侵攻 [歴史への旅・古代]

歴史における日本の記録は、漢書東夷傳のAD57年にさかのぼることができる。九州北部に原初的な国が生まれ、それが発展して行ったことが魏志倭人伝で確認される。これらの国が海峡をまたいだ海峡国家であったことはすでに述べた。238年には邪馬台国の卑弥呼の記録がある。しかし、その後については手掛かりがなく、413年に倭王賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいるのだ。空白となる4世紀に日本では極めて重大な変化があった。

すなわち、あれほど盛んに作られた銅鐸が突如としてなくなり、変わって巨大な古墳が出現する。それまであった周溝墓のように穴を掘って埋めるのではなく、高く盛り上げた山に横から入れるという異なる発想のものだ。古墳の副葬品は、それ以前には見られない馬具が増え、金冠など騎馬民族好みのものもあらわれる。宗教も文化もまったく違うことになったということだ。この大きな変化がどのようにして起こったかが4世紀の空白に隠されている。

4世紀が空白になったのは、三国時代を統一した晋が崩壊して以来、漢民族の王朝が南に後退し、華北は五胡十六国と言われる遊牧民族の支配するところとなってしまったからだ。4世紀は世界的な民族移動の時期である。ヨーロッパでもゲルマン民族の大移動があった。ゲルマン民族はヨーロッパ各地に侵入し、古代秩序を壊していくつもの国が生まれた。アジアでは匈奴・鮮卑に押された扶余族が朝鮮半島に南下していく大移動があった。

中国では匈奴、鮮卑といった胡族の侵入が古くからの問題で、秦の始皇帝はそのために万里の長城を作った。しかし、歴代王朝は遊牧民を排撃したばかりではなかった。遊牧民は機動性があり戦闘にはめっぽう強い。三国時代には強い兵士を求めて対立する各国は、積極的に遊牧民を招き入れもしたのだ。その結果、華北に入りこんだ騎馬民族が農耕民族を従える形で国を興すことになった。五胡十六国は、いわば軒先を貸して母屋を取られたようなものだ。

朝鮮半島から日本への民族の流れは、こういった4世紀の民族移動のもっと前から継続していた。気候が温暖で水が豊富な日本は農耕、取り分け米作に適している。江南から朝鮮半島に米作が伝わるとともに、それまでの粟、高粱といった作物から米作への転換が起こり、農耕に適した地を求めて海峡を渡ることが必然になった。朝鮮は米作には寒すぎる。最初に海を渡ったのは、朝鮮半島南岸にいた倭族であり、これが拘邪韓や邪馬台からなる海峡国家=倭国を形成した。

遅れて海を渡った韓族は、まだ倭族の支配が及んでいなかった辺境の地に進んで、ここに定住して弥生人と混血していった。出雲、大和といった地域だ。日本の金属文化はどこかに始まり、それが広がったのではなく、一斉に立ち上がっている。それはこうした辺境の地に韓族が入り込んでいったからである。日本ではすでに弥生時代の後期には稲作が始まっていたが、韓族が持ち込んだ金属器による優れた農耕で開拓が進み、とりわけ平地が多く水利の良い大和に大きな集落が生まれ出した。

大和や出雲に北九州を中心とする銅剣銅矛とは少し趣の異なる銅鐸文化が育っていったのはその担い手が異なったからだ。銅鐸の元になったとされる馬鐸は朝鮮でも倭族がいた南岸ではなく韓族がいた新羅地域に多く出土している。金属材料は中国から朝鮮を通して北九州さらに出雲・大和に米との交換で流通した。この銅鐸・銅矛共存の体制が4世紀まで続いていた。

4世紀の民族移動の影響は、朝鮮半島にも及んだ。ツングース系の騎馬民族である扶余が侵入し、戦闘力を買われて、支配者に重宝され、やがて支配者の地位を奪って行くということがここでも起こった。元来遊牧民は定住せず、狩猟を基本とした生活をしていたが、騎馬の機動性を用いて農耕民の村落を略奪するようになっていった。略奪を定期化して税と称して定住すれば、それで国家が成立する。

帯方郡を破壊して高句麗を打ち立て、太白山脈の東では新羅、西では百済といった国を作った。もちろん、半島南部の倭種地域にも侵入したが、海峡国家である倭の主部は北九州にあったから、そこにとどまらず海峡を渡った。

北九州にも騎馬民族文化の影響がみられる遺跡がある。しかし、日本で騎馬民族を積極的に受け入れたのは北九州の倭族ではなく、むしろ畿内の韓族・弥生人集団だ。蝦夷との抗争が避けられず騎馬民族の戦闘力が有用だったからだ。北九州には倭国の強固な基盤があったから、支配権を得にくかったから畿内に向かったのかもしれない。銅鐸文化を持った農耕民族に、騎馬民族的な活力を与えることで、古墳文化を生み出していった。それが瞬く間に日本全土に広がったのは騎馬民族の戦闘性にもあるが、やはり経済的には、鉄の生産にあっただろう。砂鉄から鉄器を作ることが始まりこれが、周りを圧倒して行った。

日本書紀にこういった騎馬民族侵入の片鱗を見るとすれば、それは応神朝になる。応神天皇は北九州に生まれ、畿内で実権を振るったが、両親と言われる仲哀天皇も神効皇后も実在性が薄い。日本書紀は応神天皇が西から騎馬民族を率いて大和にやってきた人物であることを物語っている。これは、神武東征のモデルとも重なる。ホムダワケから始まる河内のワケ王朝は何から別れたかと言えば、それは扶余族本流から別れ出たものと言うことになる。

鉄の国産化で朝鮮半島からの金属供給を軸にした小国家群の共存関係は崩れ、大和が強力になって行く。北九州の海峡国家の隆盛は、砂鉄による鉄の国産化が始まると共に、金属流通拠点の意味を失って衰退していかざるをえない。海峡をまたいだ交流は薄れ次第に朝鮮半島の倭族は日本から切り離されて行く事になる。任那・伽那はこういった人々が騎馬民族と混血して立てた国である。

ヤマト王権は、渡来した騎馬民族が土着の農耕民族を支配する形で生まれてきたのだから、扶余族系の政権だったことになる。機動性に富み、各地へ影響を広げていった。出雲や九州の国々も大和に従うようになっていったが、海峡国家の半島部分は、取り残された。

日本書紀は朝鮮半島を支配していたかのように書いているが、その実質は見えない。朝鮮はもはや外国ではあったが、大和政権にとっては出自の地であるから、こだわりだけが残っていたに過ぎない。はっきりと朝鮮が外国になるのは、新羅が唐と組んで任那地域をも含んだ支配を確立させた時からである。任那日本府の滅亡・白村江の敗戦と記録しているが、朝鮮半島南部にあった倭種的な国が消滅したと言う事である。

任那日本府の謎 [歴史への旅・古代]

学校で教わった日本史の教科書には任那日本府が562年に滅びたということが出てきた。不思議なことに、ではいつ出来たかと言うことについては何も書いてなかった。

日本書紀の仲哀記には神功皇后の三韓征伐という記事があるが、魚が船を運んで新羅中央に飛び込んだら戦わずに新羅は降参してしまい、ついでに百済や高句麗も服属するようになったといった荒唐無稽な内容だ。仲哀天皇や神功皇后の実在自体が極めて疑わしいものだ。どうも任那日本府はこの時にできたと想定されているらしいのだが、まさかこれを史実とするわけにも行かないから教科書には出てこなかったのだ。

日本書紀はこれ以降、朝鮮三国が日本に朝貢する記事が何度も出てくる。しかし、これは全くあてにならない。何しろ中国(呉)まで日本に朝貢したことになっているくらいだ。朝貢は貢物を持って行って、見返りとして称号や文化知識、多大な恩賞をもらうのが目的だから、これらの先進国が日本に朝貢するわけもない。日本という国号を使いだしたのは天武期からだから、この時代に日本府などという名称そのものがあり得ない。日本書紀編集時の見栄から出た創作としか考えようがない。

しかし、朝鮮に関する記事が多いのは事実でありこれが何を意味するかは考えなくてはならない。日本と朝鮮は狭い海峡で区切られているだけなので古くから交流があった。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の卑弥呼の記録も楽浪郡を通じての記事だ。249年に壱予が晋に朝貢したが、その後については、あてにならない日本書紀の記述以外に手掛かりがなく、413年に倭の五王の一人、賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいる。

414年建造とされる好太王碑には400年と404年に二度にわたる倭との戦いが書いてあるが、日本の記録とは対応しない。よく議論される「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民 」という一文は、日本では倭が海を渡って新羅を臣民にしたと読まれることが多いが、これは明らかにおかしい。高句麗が「臣民」といった場合、好太王の臣民に決まっている。敵の「臣民」はあり得ない。倭の襲来に毅然と対応できない新羅百残を渡海作戦で打ち破り、直接の臣民としたと読むべきである。

これは396年に百済を攻めた時の理由説明であり、倭との戦いではない。前述の三韓征伐も高句麗と戦ったとは書いてない。そもそも日本書紀には高句麗という国が出てこないのだ。替わりに出てくるのが高麗という国だが、高麗は10世紀に朝鮮全域を支配した国だ。この時代はおろか、日本書紀が書かれた時にもまだ存在しないはずだ。

日本書紀に高麗が現れる理由は少し複雑で、実は高句麗が520年ころに高麗と名を改めたらしい。10世紀の高麗は自らの出自を高句麗王朝と関連付けるためにこの名前を受け継いだものだ。魏書では518年まで高句麗で、梁書の520年記事が高麗の初出である。随書も591年記事からは高麗である。ヤマト王権は520年まで直接の接触がなく、高句麗を高麗としか認識しなかったのだろう。あるいは、記録がなかったので日本書紀の編者が当時の知識で創作したことの現れかもしれない。

好太王碑は当時のままの金石文が残っていたのだから一級資料ではあるが、事実が書いてあるというわけではない。百殘新羅舊是屬民というのがそもそもウソだ。百済との戦いは369年から始まり、371年には高句麗王が戦死するほどに百済が優勢だった。高句麗の属民であるはずがない。当然それに続く文も怪しい。まだ古墳時代が始まったばかりで、熊襲と国内戦を争っている倭に、新羅、百済の全域を支配するような軍事力を朝鮮に送れたはずがないのだ。新羅、百済が倭寇に対して弱腰だったと言うに過ぎない。

当時の王碑というのは事実を書くのではなく、どれだけ大風呂敷を広げられるかを競うようなものだ。好太王碑は高句麗が最強であるという立場で書かれている。百済は、百残と書いて憎しみを露にする仇敵なのだが、実際には百済が優勢だったりする。劣った存在であるはずの百済が優勢だったことを釈明するために、その背後関係を持ち出さなくてはならない。そのために倭が持ち出されているように思われる。海を隔てた島に、政権があったことは認識されており、任那・加羅といった小国のくせにしぶとい国とも関係する不気味な存在ではあっただろう。

400年の戦争は、新羅に倭が侵入して助けを求めたとなっている。好太王は五万の兵を派遣して新羅救援を行った。これが高句麗・倭の大軍対決になったかというとそうではない。新羅に進軍したらウヨウヨいた倭人は任那加羅方面に逃げ去ったと言うだけである。倭が大軍を派遣していたとは読み取れない。隙をついて安羅軍が新羅の王都を占領してしまったと言うのだから、5万人の軍勢による制覇とは程遠い。その後の戦闘については語らずウヤムヤになってしまっている。結局、新羅と任那加羅安羅といった南岸諸国との争いに高句麗がちょっと介入してみたと言うだけのことだろう。任那が出てきて倭に寛容であったと読めるが、倭が支配していたとは書いてない。

404年の戦闘もおかしい。倭が帯方郡に侵入してきたと言うのだが、帯方郡に至るには百済を制圧しなければならない。しかるに百済は健在であり高句麗に服属していることになっている。百済と倭の戦闘は起こっていない。倭が百済を飛び越えて海路で帯方郡を攻撃するというバカなことも考えにくい。高句麗の大軍に匹敵する軍勢を一気に運ぶだけの船を調達するのは難しい。もし、任那に日本府があれば当然倭軍は任那に集結して進軍するだろう。

この時も高句麗は大軍を派遣して大勝利を収めたことになっているが、実際に戦闘があったかどうかは分からない。広開土王碑の立場は、高句麗が絶対優勢であるということを貫いており、不都合なことは、背後勢力のためとして、そのためにいつも倭が持ち出されているのだ。倭との実際の戦争は存在感がない。

日本側の資料も建前優先ということでは同じようなものである。日本書紀は三韓征伐以来、朝鮮半島の任那を領土として、新羅と対立していたという立場で書かれているが、継続的な役人の派遣は見られず、支配の実態に乏しい。唯一任那国司に派遣されたという吉備臣田狭は裏切って新羅についた。新羅征伐に派遣された葛城襲津彦も美女に惑わされて逆に加羅を討った。紀生磐宿禰は任那をわがものとして高句麗と結んだ。といった具合で、おかしなことに、出てくる人物がことごとくヤマト政権を裏切っている。

これらの人物はむしろ朝鮮半島でヤマト政権からは独立した存在だったと考えるほうが自然だ。生き残りのため百済についたり、新羅についたり、あるいは倭と結んだりする。好太王碑の文面も、倭が戦略を持って日本から進撃してきたというようには取れない。ちょっかいを出して追い払われるといったことを繰り返しているから、やはり朝鮮半島南部にいた倭種との抗争だろう。朝鮮の倭は日本と関係を持ってはいたが、ヤマト王権に属しているわけではなかった。ヤマト王権は朝鮮の領土にこだわりを見せているが、実体が伴っていない。

もう少し後の年代になってもやはり見栄的な記録が続く。ヤマト王権は継体期に6万の軍勢を朝鮮に送ったが、筑紫国造磐井は新羅から賄賂をもらって新羅討伐を妨害したというのだから国内戦を合わせるとあり得ない大軍になる。天智期の白村江の戦いには2万7千の大軍を送ったことになっているが、これもあり得ない。この直後に起こった王権をめぐる総力戦である壬申の乱でもせいぜい数千の衝突でしかない。795年になって藤原仲麻呂が新羅遠征を企てたことがあるが実現していない。遠征軍の派遣は8世紀末の生産力をもってしても困難な事業だったのである。

任那日本府は562年に滅びたのであるが、これに対して何の対策も取っていない。百済が攻められるのだが無関心で、滅亡して遺臣が再建を策した時に初めて介入する。唐は朝鮮半島を直接支配する意図がなかった。新羅、百済に対して再三和平を勧告しているし、滅亡後も扶余隆を百済王と認定している。日本書紀では百済再興と書いているが、実際には扶余隆と豊樟の跡目争いだったようだ。

白村江の戦いが本当に、これほどまでの大軍を派遣しての敗戦なら国内的にも動揺があるはずだが、それは全く見られない。中大兄皇子は責任を問われず平然と天皇に即位している。次期を担う有力者であるはずの大海人皇子はまったく戦争に関与していないし、日本書紀の記述は他人事のような淡々としたものだ。665年には、何事もなかったかのように遣唐使を派遣している。

白村江の戦いで具体的な戦略立案をしているのは、朴市秦 田来津(えちはた の たくつ)という人物だが、不思議なことに19階の位階制度で、14番目の小山下という下役である。これもヤマトからの派遣ではなかっただろう。基本的には白村江も朝鮮半島内で争われた戦いだ。唐・新羅に朝鮮半島に残った倭種が鎮圧されてしまったということだろう。

日本書紀の記述にどれほどの信憑性があるのかはには注意が必要である。権力者が文字を使いだしてすぐに思いつく用途は国史の編纂である。だから文字自体はもっと前から伝わっていたとしても、紙や筆を手に入れて実際に使い始め、確実な記録が残るようになったのは、日本書紀が出来た直前頃だということになる。天武朝以前のことについては、言い伝えや憶測をもとにした創作でしかない。

ヤマト王権には朝鮮支配に対する強いこだわりがあったが、これは天皇家の出自が朝鮮半島にあったことを示すだけである。海峡国家に始まった倭の中心地は大和になっており、朝鮮半島の倭種との関係は希薄になって、もはや外国であったが、友好的だった任那・加羅などを願望を含めて建前上領土と記録したかっただけのものだと考えて良いだろう。確実な記録が残るようになって以降、朝鮮半島の領土といった記述は一切なくなるし、失地回復を目指すといった話も全く出てこない。農業以外に産業がない時代には朝鮮半島に領土を持つことに実利がなかったからである。

アッツとキスカの占領と撤退 [歴史への旅・明治以後]

アッツとキスカはいずれもアリューシャン列島にあるアメリカの島だった。しかし、2600人が全滅したアッツと6500人が生還したキスカでは、戦争に狩り出された人たちの明暗を大きく分けることになった。

奪還を目指すアメリカ軍がせまる中、アッツからの援軍要請には答えず、食料・弾薬も送らず、全員が戦死することを命じたのだ。一切の援軍を求めることなく自ら徹底抗戦の道を選んだと報道されたが、もちろんウソである。これが「玉砕」という言葉の始まりだった。大本営はアッツを戦略的価値がなく犠牲を払ってまで占領し続けるにあたらずとして見捨てたのである。

キスカのほうは、脱出作戦が行われた。6500人という人数からも、貴重な航空兵が含まれていたこともあって脱出作戦を取らないわけには行かなかった。当初、潜水艦による輸送が試みられたが輸送量が小さく、艦船による強行輸送が試みられた、これが運良く深い霧に助けられて成功した。もぬけの殻を攻撃した米軍をあざ笑うような書置きを残していた。日本軍が撤退を恥としなかった例は珍しい。それだけ戦略的価値がないことが明らかだったのだ。

明暗は分かれたが、戦略上重視されなかった点は同じだ。では、なぜそんな所を占領したのかということになる。この二つの島は無人島であり、占領にも戦闘はなかった。爆撃を受けて、銃手は高射砲を撃ったが、ほとんどの歩兵は戦わずして引き揚げたことになる。いったい何のために占領したのだろうか。撤退作戦の幸運がなければキスカもアッツと同じように多数の玉砕となっていたことに間違いない。

アッツ、キスカの占領はミッドウエー海戦と同時に行われた。アメリカ側では、ミッドウエー襲撃のための陽動作戦だったと見ている。しかし、陽動作戦ならミッドウエー海戦終了と共にすぐ撤収するべきだった。そうすれば、撤退に苦労することもなく、ましてアッツを見殺しにする必要もなかったのである。事実、ミッドウエー海戦の敗北を知った山本五十六司令長官はアッツ・キスカ作戦の中止を命じている。ところが12時間後に命令は撤回され、アッツ・キスカを長期占領することになった。

これらの島は日本が占領している唯一のアメリカの領土になるから、アメリカ軍は奪回作戦を取らざるを得ない。しかし、日本にはそれに対する準備はなかった。島伝いにアメリカ本土に進撃するにはあまりにも米本土から遠い。作戦上、多くの兵力を投入する島ではないことが明らかだ。逆にアメリカ軍が基地を作っても、東京まで4000キロもあり、爆撃機の航続距離を超えていて攻撃には使えない。作戦上は双方にとって意味のない島なのだ。事実、アメリカは奪回後も島を爆撃基地として使ってはいない。

意味のないアッツ・キスカの占領がなぜ行われたというと、政治的に必要だったからである。ミッドウエー海戦の敗北は秘匿され、新聞発表は6日後に、アッツ・キスカの占領と同時に発表された。もちろんミッドウエー海戦は勝ったかのように報道されたのであるが、その詳細を見れば、4隻の空母を失い、日本軍の損失が大きいことは隠しようもない。アッツ・キスカの占領を抱き合わせなければ恰好が付かないのだ。アッツの2600人は、もうこの時点で、軍の面子のために命を捧げさせられることが決まっていたことになる。

軍は、本土への空襲を防ぐためにアッツ・キスカの占領が必要だったと位置付けているが、4000キロを往復できる爆撃機はない。その意味ではミッドウエーも同じことだ。日本からは遠く、アメリカ軍の本拠地であるハワイに近いミッドウエー島を占領しても、維持できないことは明らかだ。山本五十六はミッドウエーは、島の占領そのものが目的ではなく、占領することにより、出動してくる米国艦隊主力を撃滅することが目的であると主張した。確かに、米艦隊を撃滅してしまえばハワイだって占領できる。

実際には、ミッドウエー島を占領する前に、日本の連合艦隊は撃滅されてしまった。この時点ではまだ日米の戦力は互角だったから、地上軍を送り込む上陸作戦なのか、あるいは機動部隊による海戦なのかがはっきりしない中途半端な作戦であったことが敗因と言ってよい。

日本軍がミッドウエー島への攻撃に手間取っているうちにアメリカ空母の襲撃を受けた。航空母艦は防御が弱く、損傷を受けると航空機も使えなくなるから先手必勝である。攻撃を急ぎ、戦闘機の護衛もなく突っ込んでくるアメリカ軍の果敢な戦闘も想定外だっただろう。アメリカ軍は速攻の重要性をしっかり認識していたのだ。帝国海軍はアメリカ空母3隻のうち2隻には攻撃する事すらできず4隻の空母を失った。

問題はなぜこういった根本的とも言って良い作戦の誤りを犯したかということだ。敵空母だけでなく、地上航空基地からも攻撃を受ける場所で決戦を挑むのは不利に決まっている。ミッドウエー作戦は、司令部が行った事前の図上演習でも失敗と出てしまっている。にも拘わらす強行した理由が問われることになる。

多くの戦史家が過小評価して見逃してしまっているのは、ドゥリトル爆撃のインパクトである。開戦からわずか3ヶ月、真珠湾で米海軍を撃滅したはずなのに日本の都市が軒並み爆撃を受けたのである。被害は大きくないのだが、それは問題ではない。皇居がある帝都の爆撃を許してしまうなどということは、帝国軍人としてあり得ないことだ。近代兵器を駆使していても、当時の軍人の精神構造は前近代的な天皇崇拝のもとになり立っていたことを忘れてはならない。

対抗関係にあった陸軍からあざけられても仕方がない。予測外の奇襲だったため、日本列島を縦断されて一機も撃墜できなかったとなれば、軍の面目は丸つぶれと言っても良い。当時の報道の表には当然出てこないが、海軍の内部には、激烈な衝撃が走ったことに疑いはない。この衝撃は冷静な判断力を超えたものだったのである。

何が何でも爆撃を阻止しなくてはならない。しかし日本軍には、ドゥリトル爆撃隊がどこから来たのか皆目見当がつかなかった。SBDのような艦上爆撃機なら航空母艦だが、B25はアメリカ陸軍の大型爆撃機である。一番日本に近い陸軍基地のあるミッドウエーから来たとしか考えようがない。しかし、B25は4000キロしか飛べないはずだ。日本を爆撃して中国に着陸しても6000キロは飛ばなければならない。いつのまに航続距離が極端の増えたのかよくわからないが、ともかくミッドウエーを攻略するしかないという考えに落ち込んでしまった。ミッドウエー作戦は冷静な作戦判断を超えて、ミッドウエー島上陸ありきで始まった作戦なのだ。

アメリカ軍は、航空母艦が陸軍のB25を積んで日本近海まで進出し、大型爆撃機を空母から発進させるという曲芸をやったのである。空母が風上に向かって全力で航行すれば発進できると言うアイデアは民間航空出身のドゥリトル中佐が発案した。陸軍と海軍が対立していた日本の軍人には想像もつかない発想である。当然、B25の着艦は無理で、中国まで飛ぶしかない。それでも燃料が足らずに全機が失われはした。ドゥリトル空襲はアメリカ軍にとってもギリギリの決死隊的な攻撃ではあった。しかし、これが日本軍をミッドウエー作戦に追い込んで墓穴を掘らせる結果となったのである。

ミッドウエーで機動部隊を失って以降、まともに戦争に勝つための作戦は立てられず、まにあわせのものばかりとなり、それも全て裏目に出た。これに付き合わされた国民はたまったものではない。アッツのような玉砕があちことで始まり、200万の日本人が軍の面子のために命を捨てさせられたのである。

海洋王国の虚構ーー中継貿易の実態 [歴史への旅・武士の時代]

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15世紀から16世紀にかけて、日本で言えば室町時代であるが、この当時琉球は中継貿易で繁栄を極めた海洋王国であったと思われているようだ。多くの歴史本がこれを書いており、小説などもこういった前提のもとに書かれているものが多い。しかし、これは本当だろうか?

琉球は海に囲まれており、古くから海外への渡航があったことは確かだ。続日本紀にも南島から大和への来訪があったことが記されており、遣唐使船が阿児奈波に漂着して帰国したことも記されている。中国でもすでに随書に琉求が現れている。地理的には中国、日本、朝鮮の中間点にあり中継貿易の結節点となる条件はある。しかしこれだけでは貿易で繁栄する要件を満たしているとは言えない。造船技術や航海術の発達や貨幣経済のような社会システムの卓越した整備が必要である。

琉球はサンゴ礁からできた島であり火山島ではない。だから小さな島ではあるが平地が多く火山島ではあり得ないような農耕の発達があった。この農耕の発達が小さいながらも独自の王国を生み出す条件となった。琉球は農業国だったのである。沖縄は早くから開けた島であり、縄文時代からの遺跡も多く見られる。しかし、サンゴ礁には砂鉄がない。鉄器文明の生まれようがないために、実に10世紀まで石器時代が続いた。外洋船の建造には多くの鉄釘がいる。その前に鉄の工具やそれを使った船大工といった職業の発生がいる。

日本での記録は、727年以来1400年代まで途絶え、この空白期間に文化の発達があって石器時代から一挙に海洋王国に発展したと言うことも奇妙だ。発達段階に応じた交流の拡大があってしかるべきだ。その後の経過もいぶかしい。それほどまでに隆興した国がなぜ、いとも簡単に薩摩に屈服するのだろうか。秀吉の朝鮮出兵に協力する名護屋城の建設資金を要求されても、薩摩からの借金に頼らなければならなかったのはなぜだろうか。交易で富を蓄積していたのではなかったのか。ペリーが浦賀に来航する前に琉球に立ち寄っているが、ペリーは琉球を世界で最も貧しい国と観察している。繁栄を極めた海洋王国と言うことには大いに疑問がある。

歴代宝案は1607年の記事で「計今陸拾多年毫無利入日鑠月銷貧而若洗况又地窄人希賦税所入略償所出如斬匱窘」と書いている。60年このかた、交易は全く利益が上がっておらず財政は困窮しているということだ。中継貿易は 尚真王の時代に最盛期を迎えたと言われるが、球陽141号が掲げる王の事績は「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ。」であり、交易についてはまったく業績とは考えられていない。結果的には交易は「もうからなかった」と考えるしかない。

琉球が明に朝貢を始めたのは、1372年に揚載が琉球に派遣されて招諭してからだ。まだその頃は琉球は三山に分裂していたのだが、中山の察度を最初として、各王は競って朝貢するようになった。臣下の礼を取らなければならないのだが、わずかばかりの貢物を持って行けば多大な下賜品が手に入るのだから朝貢は非常に分が良い交易だったのである。朝貢の回数はこのころが一番多い。朝貢に対する大盤振舞いは受け入れる側にも負担が大きいので、通常は2年1貢とかに制限するのだが、この頃の明は無制限で琉球からの朝貢を受け入れている。明にとっても琉球との交易が必要だったのである。

明は元を駆逐して成立したのであるが、馬の供給地は依然としてモンゴル族の北元が支配していたから琉球馬がほしかった。北方の緊張も続いているから、火薬原料もいるのだが、硫黄は中国に産出しない。琉球は硫黄鳥島に硫黄を持っていたのである。こういった琉球物産の供給は、小さな船での朝貢だけでは足りず、明から李浩を派遣して40匹の馬と5000斤の硫黄を持ち帰るといった直接買い付けの記録もある。小さな船ではいくら朝貢があってもまだ足らないという状況が続いたのである。

物流量の不足を補うために明は琉球に大型船を供与した。それだけでなく、船を操作する人材まで派遣した。破格の厚遇と言える。それだけ、明にとって琉球との交易の必要性は高かったということである。夜間航行のできる大型船と天測航法の導入で福州への無寄港直線ルートが可能になった。それまでは目視に頼った日中航法だったので航路は島伝いの与那国ルートだったはずだ。

もちろん朝貢は琉球に多大な利益をもたらした。土器しか生産できなかった琉球にとって明の陶磁器は重要だったし、砂鉄のない琉球では鉄器の入手は死活問題でもあった。鉄の農機具は農業生産を飛躍的に高めることができる。三山統一の基礎はこうした鉄の普及によってもたらされたものである。

しかし、明の支配が安定してくると硫黄の需要も少なくなり、また馬も中国本土に放牧地は十分あるのだから、琉球に頼る必要性はいつまでも続かない。それでも、琉球側にとっては鉄や陶磁器は欠かすことができないものであるから朝貢をやめるわけには行かない。物産がなく貢物に窮した琉球はこれを南方に求めた。福州からジャワスマトラに出かけ、その産物を持ち帰って明への貢物にしたのである。交換商品には明からの下賜品が使えたが往復には費用もかかるので朝貢は以前ほどの丸儲けではなくなって来た。

この時代の日本や南方への交易を中継貿易とする見方は内実がない。明への朝貢は270回もやっているが、日本への交易は15回、南方も60回に過ぎない。物流量の上からもこれが琉球を中心とした中継貿易でなかったことは明らかだろう。物流の圧倒的部分は明と琉球の間だ。南方への航路を見てみると、出発地も帰還地も福州である。だから殆どの南方交易品は福州で陸揚げされた。琉球には南方物産の出土が少ないことからもこれはわかる。交易の中継点は琉球でなく、むしろ福州であったと言える。

多くの海洋王国論者はこういった物流量を見る視点が欠落しており、交易があったと言う事だけで中継貿易だなどとする誤りを犯している。南方や日本との交易はあくまでも明への朝貢の補助手段であった。明皇帝の気を引く貢物を入手するための買い付けをやったに過ぎない。

尚徳王は、1465年に明に対し、概略次のように述べている。「近年、我が方の附搭貨物に対しては、絹物が給されていますが、お蔭で銅銭が欠乏して貢物が買えません。我が国の産物は馬と硫黄だけで他の物は他国から購入しております。どうか銅銭を給してください」。絹織物を日本や朝鮮に運んで莫大な利益をあげることなどできていない。実際、朝鮮への輸出はほとんど日本の商人頼みであり航海もしていないのだ。これからも交易は明への貢物の買い付けでしかなかったことがわかる。

馬や硫黄の需要がなくなると、明にとって琉球の価値は減ってしまう。1450年ころには、船の無償供与も終わってしまった。琉球には造船能力がなかったから、福州で船の買い付けを行わなくてはならなくなり、朝貢の利益はさらに薄いものになった。それでもなんとか交易が続いたのは、海禁政策により明の民間交易が制限されていたからである。明の交易は朝貢国による進貢以外は禁止されたので、琉球は一種の貿易特権を使えたことになる。

船は購入しなければならなくなってしまったが、派遣中国人たちは、久米村に中国人社会を形成し、中国語や航海術を保持していたからこれに頼って南方交易も続けることができた。彼らはいわゆる帰化人ではない。琉球王朝の家臣ではなく、琉球王は統率者の任免権も持たない。中国語で生活し、明の文化を保つ独立した存在だったのである。南方には華僑ネットワークが形成されており、これも琉球の交易に貢献した。1428年パレンバンへの交易船は、琉球王尚巴志の書状だけでなく、中国人集団の代表者懐機の書状を携えて行った。

南方交易を支えたものには、明の威光も大きい。歴代宝案にある琉球王から南方諸国への文書には、交易が経済的な目的ではなく、明皇帝への忠誠を示すためのものであることが強調されている。明の威光を使って有利な交易条件を確保していたことがわかる。

ポルトガルの東洋進出が始まり、1511年にマラッカ王国が滅びた。ポルトガルが進出して、琉球に替わって中継貿易をしたのが琉球が衰退した原因のように言われているが、ポルトガルが南方物産を大量に日本に運んだなどという事実はない。ポルトガルはヨーロッパの物品を持ち込んだのであり南方物品の交易とは関係ない。

普通に考えれば、もし琉球が中継貿易を担っていたのであれば、ポルトガルの進出で、さらに交易は広がるはずである。そうならなかったのは、琉球の交易は明の威光を背景にしたり、華僑ネットワークに頼った貢物の買い付けでしかなかったからである。そんなものはポルトガルには通用しない。ジャワに琉球船が来ていても、相手にせず、日本や中国と直接取引をした。これといった物産のない琉球には興味を示さなかったのである。

琉球の南方交易に置き換わったのは明や日本の直接交易である。明の海禁政策が弱まって民間貿易が行われるようになったから、琉球の朝貢特権は役立たなくなってしまった。日本の貿易商も進出してきて、琉球を素通りして明や南方に航海していった。航海能力に劣る琉球の出番は、当然なくなる。

朝鮮との交易はずっと日本経由だったが、応仁の乱以降は日本との交易も全て日本の商人が担うようになって、琉球からの派遣船はなくなった。久米村の中国人技術者も代をかさねることで琉球化して行き、久米36姓と言われる琉球王朝内の有力集団になってしまった。それと共に中国語や航海術も失われて行ったのである。

1534年に陳侃が冊封使として来琉した時には、渡航に琉球から来た航海士、蔡廷美の援助があったと記録している。この時はまだ在琉中国人集団が健在だったことがわかる。しかし、1570年を最後として南方交易は行われなくなった。1594年の朝貢では航路をまっとうできず、浙江(せつこう)に漂着してしまっている。航海が出来なくなってしまっているのだ。中山王尚寧が1607年の書簡で中国語も航海術も失われて朝貢がままならないことを嘆いている。明国の海洋技術は高度すぎて、琉球では消化し切れなかったのである。

明への朝貢による寄生でなり立っていた琉球王朝は、朝貢の行き詰まりから財政危機に陥った。秀吉から朝鮮出兵のための資金拠出を命じられた時も、これに答えることができず、肩代わりした薩摩への借金となり、これが薩摩による琉球支配の口実に使われることになったのである。それでも、中国からの輸入に頼らざるを得ない琉球は、明・清への貢物を日本から買い付けたり、倭寇との闇取引で手に入れ、赤字状態で朝貢を続けて行く事になった。赤字は米を売ることで補われた。そのため琉球の食料は常に不足することになった。琉球が海洋王国として栄えたなどと言うことは絵空事にすぎない。

ヤマト王権の成立は七世紀 [歴史への旅・古代]

考古学的検討と中国文献から、日本の古代は、海峡国家から北九州へと発展したことがわかる。これは「古代の日本は海峡国家」で書いた。そうすると、卑弥呼の邪馬台国が九州にあったことも確実ではあるが、ここからヤマト王権による統一国家への過程がまだ解明されていない。九州王朝説では「磐井の乱」がヤマトの制覇であるとしているし、「壬申の乱」が王朝交代だと言う説もある。

しかし、二王朝の対決といった構図を確認するにはには、あまりにも痕跡が少ない。これが邪馬台国九州説の弱点だと言える。武器の発達も十分ではないし、文字がなくては統制のとれた軍事組織も作れない。この時代の戦争は、小競り合いの連続のようなものにならざるを得ない。決着には長い年月がかかり、したがって大きな痕跡が残るはずだ。二大王朝の対決には無理がある。

僕は日本の王権が王朝などと言える確固としたものになるのはもっと後代のことだと考えている。小国の分立が続いたが、これらの小国は時には争いもしただろうが、基本的には共存が続いた。これは銅鉄の流通があったことから演繹される。それが、徐々に1つの王朝にまとまっていったのである。この時期を日本書紀は随分と昔にすり替えているが、実際には6世紀なのだと考える。

砂鉄を使った鉄の精錬が始まり、金属が国産化されると、海峡国家の必然性が失せていった。大きな平野があり水源の得やすい畿内の生産力が高まっていったのは当然だろう。古墳文化が発展し、九州をしのぐようになっていったが、どちらもまだ王朝と呼べるような強固なものではなく、したがって対決的な大戦争は起きない。古墳は大和に多いが、実は全国各地に分布している。大規模古墳も備前に多かったりするので、ヤマト王権が全国を支配していたことを示すものではない。この当時の王権がどのようなものであったかは、万葉集からもうかがえる。

万葉集の一番目の歌:
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籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
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籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕こそ名乗ろう 家柄も名も
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これが本当に雄略天皇の歌であるかどうかは疑問があるのだが、天皇が一人で畑に出かけ、女の子に声をかけている。大和全域を治めているのは自分であると自己紹介しなければならない。5世紀の王権とはこの程度のものだったのだ。

日本書紀の592年には蘇我馬子が崇峻天皇を殺害した記事があるが、特に大事件にはなっていない。後には全国を支配し、特別な家系とされる天皇家ではあるが、この時点ではまだ数ある有力豪族のひとつにすぎず。たまには部族間の争いで殺されることもあったことになる。6世紀の王権はまだこんなものだった。

日本書紀は8世紀になって書かれたものであるから、崇峻を天皇などとしており、馬子は家臣ということになっているが、実際にはヤマトにいくつもの部族があり、そのうちの有力なものが大王と名乗ったに過ぎない。万世一系は日本書紀がこれらを結び付けた後付けのつながりである。だからあちこちに齟齬が生まれる。

九州にも大和にも小国が分立し、有力なものが大王を名乗ったりしながら、徐々に、富を集中させたヤマトに政権を収斂させて行った。この過程を合理化するためのストーリーが形作られ神話となっていった。出雲の豪族に配慮して国産みの神話を作り、九州の部族とは、神武東征でつながりをつけ、最終的には日本書紀という形で統一国家への合意をしていったのである。

日本書紀はある意味で、各部族が合意した統一国家への合併協定である。もちろんこの間、違った歴史を主張する部族もあったが、それは強制的に統合された。日本書紀が編纂される少し前708年の大赦で禁書を所持していたものは大赦の対象から外すという記事がある。書記とは異なる歴史書もあり、異論を唱えて「挾藏禁書」の罪に問われた人が実際にいたということだ。これも6世紀にはまだ単一王権による支配は完成していないことを示す根拠である。

各地の部族が折り合いを付けて、ヤマト王権を統一国家の王権と認めるようになったのは日本書紀の編纂される少し前、天武がヤマト族の覇者となり、初めて天皇を名乗り出した頃と言うことになるから7世紀である。神話で使われた手法は当然、後代にも使われただろう。日本書紀がすべてフィクションだというわけではない。文字が使われ出してからは断片的な記録はあったはずだ。しかし、そのつなぎ合わせが作為の結果だ。継体を五代の皇孫としたり、天武を天智の弟としたりしたのがそれにあたる。

ヤマト王権は4世紀から徐々に発展し、九州や出雲と折り合いをつけて、次第に全国に政権合意を広めていった。その完成は実に7世紀、日本書紀完成の直前である。具体的で詳細な記述に惑わされてはならない。もとになった記録から取ったものであっても、そのつなぎ合わせは政治的合意によるものであり、大王を血縁関係で結んだのは創作である。

古代の日本は海峡国家 [歴史への旅・古代]

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もちろん歴史は原始の時代から続いているのだが、日本の歴史としての始まりは、やはり石器時代が終わり、独得の個性を発揮し始めた頃ということになるだろう。日本に青銅器や鉄器が現れたのは、弥生時代の後半、一世紀頃のことだ。

石器時代から青銅器・鉄器時代への変化を技術史的に見直して見るといろんなことが見えてくる。多くの古代文明は、長い青銅器の時代を経て鉄器に至るのだが。これは、銅と鉄の融点の違いによるものだ。鉄器の使用は炉技術の発達を待たねばならなかった。ところが、日本では、銅と鉄の使用が間髪を入れずに始まっている。

これは金属技術が徐々に発達したのではなく、技術流入があったことを示している。しかし、遺跡からは、1000度を超す高温を発生するような、「ふいご」を備えた炉跡は見つからない。800度程度で銅そのものは溶かせないが青銅なら溶かせる炉、あるいは鉄を赤熱して加工できる程度の炉しかない。鉱石から金属を得るのではなく、金属材料を中国・朝鮮から得て加工することで金属文化が芽生えたのではないかとは従来から考えられていた。

近年の鉛同位体分析による研究で、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡でないことが確定的になったが、同様の分析で、さらに古い時代の青銅が中国で合金化されたものであることが確定した。考古学的には九州を中心とする銅矛銅剣文化と、大和を含む西日本の銅鐸文化が併存していたことが知られているが、これらの遺物の青銅がどれも日本で作られたものではなく共通して中国で製造されたものなのである。

二つの異なる文化が共に同じ青銅を使っていたことの意味は大きい。地理的に言って、銅鉄が輸入されたのは九州だが、これを大和にも伝える仕組みがあったということになる。銅鐸と銅矛は明らかに異なる文化だから、単一の国家であったはずがない。この時代、大和が九州を支配していたということはあり得ない。まだ統一国家はなく、小さな単位で暮らしていた時代になる。2つの文化圏は対立するのではなく平和共存を保っており、この間で金属材料が流通していたことを示している。異なる文化と言えばすぐに対立や支配従属を考えるのはあくまでも後世の発想なのである。

こうしてみると、この時代の様子が見えてくる。あちこちに小さな国が分立し、その間で銅鉄が受け渡されていたのだ。受け渡しは物々交換で行われなければならない。では何が銅鉄と交換されていたのか?しかも、その流れは朝鮮にまで続かなくてはならない。当時の日本から対価として出せるものは労働力と米しかない。卑弥呼の献上物は生口すなわち奴隷だった。朝鮮半島に比べて、日本は、はるかに温暖で、水が豊富で平地もある。労働力さえあれば米の生産はできる。

僕の仮説は、朝鮮半島の南部にいた倭族が北九州に進出し、そこで生産した米を朝鮮に運びその代わりに銅鉄を日本に持ち込んだということだ。北からの海流のせいで、朝鮮は米つくりには寒すぎる。温暖な気候と肥沃な土地を求めて海峡を渡るのはごく自然な成り行きだ。本国には銅鉄があり、日本には米がある。これが海峡国家を形成する要因になった。

九州の倭族は銅鉄の輸入にのため自国だけで足りない米を近隣の国々から手に入れ銅鉄を渡した。その国もまた隣国から米を得て銅鉄を渡す。こうして銅鉄は日本に広く広まったのである。銅鉄は米を買う通貨として流通していたとも言える。青銅は腐らないので、蓄財の手法にもなった。銅鐸が多数埋められていたりするのは権力者の蓄財だったのではないだろうか。この社会資本の蓄積が後に強力な統一国家を形成する条件となっていった。

速やかな銅鉄の流通は、倭が海峡をまたいだ海峡国家であることで保障された。倭が海峡をまたいだ海峡国家であったと言うことは奇抜な発想と思われるかも知れないが、実は古文献を素直に読めば、倭は海峡国家だったことにならざるを得ない。

後漢書東夷傳には、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」とある。「漢倭奴国王」と言う金印が志賀島で見つかったことで、この文言の信頼性は極めて高いものになった。

建武中元二年(AD57年)に「倭奴国」という国があり、漢の光武帝から金印を受けたことがわかる。倭奴(ヰド)国の位置は、金印が発見された北九州糸島半島付近であっただろう。この倭奴国を含んで、倭国という国のまとまりがあったこともわかる。金印だから、倭奴国が倭国全体の代表として認められたものだ。単なる倭国の分国であれば、金印ではなく銅印になったはずだ。倭奴国は、九州以外にありようがなく、ヤマト政権や記紀とのつながりをつけようがないので、議論からも軽視され続けてきたが、日本最初の代表国家は、邪馬台国ではなく倭奴国なのである。

この倭奴国は倭国全体から見れば、極南界すなわち一番南にある国だとも書いてある。また倭の位置に関する記述では「去其西北界拘邪韓國七千餘里」とあるから北の端は拘邪韓國である。そうすると、倭国というのは朝鮮半島の南部から海峡をまたいで、糸島半島に及ぶ領域だったと考えざるを得ない。倭国は海峡国家だったということになる。

倭が海峡国家であったということは、銅鏡の考古学とも一致する。北九州の古墳群から中国製の銅鏡が多く発見されているがこれは一世紀の漢代から始まっている。大きさも後代のものより小さい。重要なのは、同じものが朝鮮半島にも見られると言うことだ。後代の銅鏡は大和から多く出土するのだが、この時期、大和の遺跡には、まだ銅鏡は現れていない。これは、こういった中国製の鏡が海峡をまたいだ倭国によって保持されていたことを物語るものである。

朝鮮の記録も倭が海峡国家であったことに一致する。高句麗や新羅の歴史には倭の襲撃が何度も出てくる。これらの戦闘で注目すべきなのは海に追い払ったという記録がないことだ。倭は直接海から来るのではなく朝鮮半島に常駐する軍事勢力だったのである。北九州から絶えず食料と人員の補給を受けて常に戦力を保持していた。朝鮮半島の倭族の役割は金属材料を獲得することだったから、韓族と度々衝突することになったのも当然である。

魏誌倭人伝の描く三世紀には、倭国の中心は邪馬台国に移り、糸島半島に当たる部分は伊都国となっている。ここでも狗邪韓国は倭国の一部という記述になっており、海峡国家の名残があるが、伊都国はもはや倭国の極南界ではない。倭国を取り仕切る女王の国はもっと南にあり、さらに南に奴国という強力な国があり、これは女王国と対立していた。邪馬台国がどこにあったかの議論が盛んに行われているが、これまでの経過を見れば、ここで急に邪馬台国を畿内に持ってくるのはいかにも唐突だ。

魏志倭人伝の景初2年(238年)の項には、邪馬台国の女王卑弥呼に親魏倭王の称号をさずけ、銅鏡100枚を与えたことが載っている。畿内を中心として大量に出土する三角縁神獣葡萄鏡がこれに当たるという議論があり、邪馬台国が畿内にあった根拠とされた。景初三年の銘が入った鏡があったことが大きな根拠となったが、出土する古墳は四世紀のものだから時代が違う。不純物同位体の分析から、古墳出土の鏡は国産であることがわかってきたのでこの議論は終わりつつある。

後代の銅鏡は広く分布しているが模様は地域によってすこしづつ違う。国内生鮮された鏡もやはり材料は中国・朝鮮のものだった。中国鏡も広く分布しているが、これも米との交換による流通があったったからだったと言える。大きく様相が変わったのは、砂鉄による鉄の国内生産が始まってからだ。銅も国内の鉱石から精錬されるようになった。もはや海峡国家の必然性もなくなり、これ以降、大和が日本の中心になって行くのである。

三世紀後半になると、大和では銅鐸が作られなくなった。銅鉄の流通を基礎とした小国家関係が失われたのであるから当然のことだ。替わって古墳を作ることが始まっていた。宗教と文化の大きな変革があり、それが経済発展と結びついていたことは確かだ。古墳文化になってからの発展は目覚しく、規模はどんどん大きくなっていった。その結果、大和地域の発展は、九州を凌駕するものになっていった。

「日本史の始まり」再考 [歴史への旅・古代]

以前、「日本史の始まり」という記事を書いた。ブログでは古い記事が読みにくいのでwebページを作って、そちらに収録するようにしようと考えている。まだ制作途中だ。

石器時代から青銅器・鉄器時代への変化を技術史的に見てみようというのが狙いだった。多くの古代文明は、長い青銅器の時代を経て鉄器に至るのだが。これは、銅と鉄の融点の違いによるものだ。鉄器の使用は炉技術の発達を待たねばならなかった。ところが、日本では、銅と鉄の使用が間髪を入れずに始まっている。

これは技術の発達ではなく、輸入があったことを示している。しかし、遺跡からは、1000度を超す高温を発生するような、「ふいご」を備えた炉跡は見つからない。800度程度で青銅なら溶かせる炉、あるいは鉄を赤熱して加工できる程度の炉しかない。鉱石から金属を得るのではなく、金属材料を中国・朝鮮から得て加工することで金属文化が芽生えたのではないかとは従来から考えられてはいた。

近年の研究でこのことが確定的になった。考古学的には九州を中心とする銅矛銅剣文化と、西日本の銅鐸文化が併存していたことが知られている。同位元素分析でこれらの遺物の銅が共通して中国の鉱山から産出されたものであることが解ったのである。

二つの文化が共に同じ銅を使っていたことの意味は大きい。地理的に言って、銅鉄が輸入されたのは九州だが、これを大和にも伝える仕組みがあったということになる。銅鐸と銅矛は異なる文化圏だから、大和が九州を支配していたわけではない。まだ統一国家はなく、小さな単位で暮らしていた時代だ。2つの文化圏は対立するのではなく平和共存を保っており、この間で金属材料が流通していたことを示している。異なる文化と言えばすぐに対立や支配従属を考えるのはあくまでも後世の発想なのである。

こうしてみると、この時代の様子が見えてくる。あちこちに小さな国が分立し、その間で銅鉄が受け渡されていたのだ。では何が銅鉄と交換されていたのか?しかも、その流れは朝鮮にまで続かなくてはならない。当時の日本から対価として出せるものは労働力と米しかない。卑弥呼の献上物は生口すなわち奴隷だった。朝鮮半島に比べて、日本は、はるかに温暖で、水が豊富で平地もある。労働力さえあれば米の生産はできる。

僕の仮説は、朝鮮半島の南部にいた倭族が北九州に進出し、そこで生産した米を朝鮮に運びその代わりに銅鉄を日本に持ち込んだということだ。北からの海流のせいで、朝鮮は米つくりには寒すぎる。温暖な気候を求めて海峡を渡るのはごく自然な成り行きだ。九州の倭族は銅鉄の輸入にのため自国だけで足りない米を近隣の国々から手に入れ銅鉄を渡した。その国もまた隣国から米を得て銅鉄を渡す。こうして銅鉄は日本に広く広まったのである。銅鉄は米を買う通貨として流通していたとも言える。青銅は腐らないので、蓄財の手法にもなった。銅鐸が多数埋められていたりするのは権力者の蓄財だったのではないだろうか。

速やかな銅鉄の流通は、倭が海峡をまたいだ海洋国家であることで保障された。こうした描像は古文献とも一致する。漢から金印をもらった倭奴国が倭の南限であったと言う記述、高句麗が残す陸地勢力としか考えられない倭との争いの記録、飛鳥時代の政権の異常ともいえる朝鮮半島領地への執着。これらがすべて説明されるのだ。

大きく様相が変わったのは、砂鉄による鉄の国内生産が始まってからだ。銅も国内の鉱石から精錬されるようになった。もはや海洋国家の必然性もなくなり、これ以降、大和が日本の中心になっていったのである。

道鏡事件はなかった? [歴史への旅・古代]

中西康裕さんの講演を聞く機会があった。道鏡事件はなかったという大胆な学説だ。道鏡事件は、悪僧道鏡が称徳天皇をたぶらかして、皇位の簒奪を狙った事件だとされている。宇佐八幡宮の神託を偽造したのだが、和気清麻呂が八幡神の正しいお告げをもたらして撃退したという続日本紀の物語だ。道鏡と称徳天皇の男女関係がセンセーショナルに扱われることも多い。しかし、称徳没後も、清麻呂が表彰されたわけでもく、道鏡も失脚はしたが処罰されたわけではない。謎の多い事件である。

続日本紀の宇佐八幡宮神託事件部分は、2つの宣命と、その間に挿入された解説文からなっている。宣命は天皇の声明文であり、書記が記録したものだ。むろん解説文は、後日続日本紀が編簿されたときに誰かが執筆したたものである。

最初の宣命は、和気清麻呂に対する怒りと処罰が述べられている。しかし、後の宣命は、聖武、元明の事績を語り、自己の天皇としての正当性を強調し、皇位に関しては天が定めるものであり、あれこれと論議するべきでない、と読める内容だ。

道鏡を皇位につけようとして、皇位問題を持ち出したのは天皇自身だ。それに対する妨害に怒ることと、皇位について議論することを戒めるのとでは180度方向が異なる。それがわずか6日の間隔で出されていることについては、古くから疑問があった。本居宣長は、二つ目の宣命は記載する場所を間違えたものであり、本来淳仁天皇を廃帝にしたところに挿入すべきものだったのではないかとしている。

中西康裕さんは、文体研究を通して、二つの宣命が同時期に書かれていることを見出し、本居宣長などの説を否定した。宣命は漢文でなく読み下しで、助詞などが間に小さく書いてある。この書き方は一定ではなく、書記によって異なることから、二つの宣命は同じ書記によって書かれていることが明らかになったのだ。

そうすると二つの宣命の矛盾はどうしたことだろう。この間に称徳天皇は方針を変更して改心したという解釈もあるのだがそれはおかしい。和気清麻呂に対する処分は、因幡員外介への左遷から大隅への島流しへと段階的にエスカレートして行き、この時はまだそれが進行中だからだ。

途中の解説を無視して、宣命だけを分析してみると、第一の宣命では清麻呂がウソの神託を報告したと怒っているが、その神託の内容については全く語っていないことに気が付く。解説文が述べているような道鏡事件とは関連がなかった可能性がある。むしろ清麻呂が誰か皇位継承者候補(他戸王?)を挙げての皇位継承神託を上奏して怒りを買ったという方が、後の宣命との整合性がある。

二つの宣命の間にある解説文は、後世勝手に付け加えた藤原氏の策謀にすぎず、道鏡事件なるものは実在しなかったというのが所論だ。称徳没後、皇位は天智系に移り、藤原氏が擁護する皇統となったが、その正当性を強調するためには、称徳を否定してしまってはまずいのだが、ある程度貶める必要があったのだということだ。道鏡はそのために利用されたのである。

しかしながら、この説には納得できないところが多々ある。続日本紀が書かれたのは事件からわずか25年後のことだ。事件はまだ人々の記憶にあるのだから、歪曲はあるとしても、全くの捏造解説を挿入するのは難しいのではないだろうか。

ただ宇佐八幡宮の神託があっただけでなく、清麻呂をわざわざ確認に行かせた理由は何だったのか。直前に、清麻呂を六位から五位に昇進させて、大きな結果を期待していたことは間違いがない。中西さんが推測するように由義宮の造営に関する神託なら何もこんな下工作をする必要はない。清麻呂が問われたことと関係のない皇位問題を勝手に持ち出したというのも不自然すぎる。

称徳天皇にとって皇位継承問題が最大の課題だったことは言うまでもない。宇佐八幡宮の神託で演出しなければならない重大問題は皇位継承以外にあり得ない。清麻呂に宇佐八幡宮のお告げを確認する報告をさせて自分の皇位継承問題に対する決着を承認させようとした。その目論見が破たんしてしまったのがこの事件だったとみるべきだろう。

持統天皇以来の歴代女帝の草壁皇子系統へのこだわりは極めて強い。しかし、期待を寄せられた聖武天皇は皇位伝承への意欲が薄く、仏道修行への傾斜を強め、前代未聞の生前退位まで行い、出家してしまうということに至った。年若くして皇位を託された称徳天皇にとっても、歴代女帝の宿願であった草壁皇子系統へのこだわりは絶対のもので、一旦は淳仁天皇に譲位したものの、結局、同じ天武系でも、舎人親王系を認めることができなかった。第二の宣命でもこの点を強調している。
天智系など、もっての他であったから。草壁皇子系統が絶えるとすれば、聖武天皇以来の仏教帰依を進めて政教一致の新たな天皇制にしたほうがましだ。称徳天皇自身も聖武天皇に習った熱心な仏教主義者だ。祭政一致の仏教国家を目指した。これが道鏡に皇位を譲ろうとした動機である。ところがこのための工作は清麻呂の裏切りにより破たんさせられてしまった。

第二の宣命にある皇位は天の定めるものであるとする言い方は、は称徳天皇の皇位継承問題に対する居直りと読める。淳仁天皇を立てて後悔し、今度は道鏡を立てようとして反対された。皇位については、もう、なるようにしかならない。あたしゃ知らないよという宣言である。清麻呂に対する処罰は続け、道鏡の重用は続ける一方、皇位継承については何も語らなくなった。事実、道鏡の失脚、光仁天皇の擁立など全ての動きは称徳没後になってしまった。

宇佐八幡宮神託事件は称徳天皇の皇位継承策である祭政一致の仏教国家への転換が失敗したというだけの事件であり、道鏡が皇位を狙って策謀したり、清麻呂が反道鏡で奮闘した事件ではないだろう。この点では、続日本紀の解説は鵜呑みにできず、やはり後世藤原氏の脚色が含まれているとみるべきである。藤原氏の庇護のもとにある天皇の正当性が続日本紀の主題だからだ。

従軍慰安婦問題 [歴史への旅・明治以後]

第二次世界大戦における日本の反省事項のひとつに従軍慰安婦の問題がある。性に関する裏の存在で有ったため、戦後も七〇年代まで取り上げられることがなかった。千田夏光「従軍慰安婦 “声なき女”八万人の告発 」(一九七三年)が問題提起となり、事実が認識されるようになった。しかし、公式な資料の発掘が難しく多くの論争を呼ぶことになった。もちろん従軍慰安婦というのは千田夏光の造語であり正式名称であったわけではない。従軍看護婦や従軍記者などの用語も同じように誰かが作った造語だ。警察の用語としては「陸軍慰安所従業婦」などと言うのが記録に残っている。

慰安所はどの部隊にもあったといわれるが、もちろん公式なものでないから表立った設置規則などはない。これを根拠にその存在すらも政府は否定していたものだ。勝手に業者が戦地で営業していたもので軍は関与していないというのが公式見解だった。しかし、部隊長名で値段を告示したり、憲兵が運営を検査したり、あるいは設置命令を受けた士官の手記が発見されたりすると、設置は合法的だったとか強制はなかったとかの言い逃れをするようになった。

慰安所は合法的だったか?
戦前の日本では、売春は公然と認められていたのだから、戦地でも売春業者が軍隊を相手に商売をしたのは当然ではないのか?と云う人がいる。しかし、いくら戦前でも売春やり放題ではなかった。「貸座敷、引手茶屋、娼妓取締規則」と云う法規制があり、「強制」とか「虐待」とかが伴う売春は法律違反だったのだ。売春が本人の自由意志によることを確認するために、まず、本人が自ら警察に出頭して娼妓名簿に登録することが必要だ。また娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭または書面で申し出ることを「何人といえども妨害をなすことを得ず」とされていた。営業はどこでおこなっても良いものではなく「貸座敷」と認定された特定の建物の中だけで許された。だましたり、強制したりして売春婦を集めることを防ぐために「芸娼妓口入業者取締規則」で売春婦のリクルートを規制していた。日本も婦女売買を禁止する国際条約(一九一〇)や児童の売買を禁止する国際条約(一九二五)に加盟しており、売春を目的とした身売りは、「本人の承諾を得た場合でも」処罰しなければならなかったのだ。

もちろんいつの世にも法の裏街道を行く無法者はいるわけで、売春はこういった無法者が横行する世界ではあったが、大日本帝国では軍が税金を使って無法者と同じ事をしていたことになる。慰安所は貸し座敷の認可を受けていないし、慰安婦の登録もなかったし、慰安婦の自由意志の確認などされた形跡はまったくないのだから、軍の慰安所は売春規則を守っていない。国内法的には完全な違法行為である慰安所が作られたのは法律を上回る「軍の力」によるものだ。占領地では軍の司令官がすべての法権限を持っていたから、国内法を無視することも出来たに過ぎない。

戦地での強姦事件があとをたたず、「皇軍の威信低下」が危ぶまれたので慰安所はこれを防ぐ目的で作ったそうだ。こうしたモラルの低下を引き起こすような戦争こそが反省されるべきであったのだが、対応の方向が間違っていた。確かに設置のされかたは様々で、業者が部隊に取り入ったりする場合もあったし、軍が設営して慰安婦を徴募した場合もあるが、部隊長名で利用規定や料金を定め、軍医や憲兵を配置して実効支配しているのだから軍の組織の一部であり従軍慰安婦であったことに間違いはない。慰安所の普及は隅々にまで及び、全ての部隊に慰安所があったと云っていいほどで慰安婦にされた人の数も二十万人に達したと言われている。

二十万人という数字はあやふやなものだが、関特演での必要慰安婦数の試算というのがあって、これを全体に適用すれば出てくる数字だし、総督府とも関係が深かった自民党の政治家荒船清十郎が講演の中で出した数字でもある。秦邦彦氏が別の試算をしているが、実人数」と「延べ人数」の混同と言う誤りをおかしており、これを正すとやはり二十万人になる。

強制連行はあったか?
慰安婦の徴募について強制連行はなかったと主張するのが最新の言い逃れだが、強制がなかった事を積極的に示す証拠が提示されたことは全くない。娼妓取締規則に基づいた自由意志の確認でもやっておればはっきりした根拠があるのだが、そんなことはやっていない。「私が強制連行をやった」と云う内容の本が出版されたことがあり、その本の証言があやふやであったことが話題になったが、もちろんこれは強制連行が「無かった」と云う根拠にはならない。

朝日新聞がこの出版を報道したことが逆に攻撃の対象になり、このあやふやな本だけが慰安婦問題の根拠だとする宣伝が行われた。どのような圧力が新聞社にかかったのか定かでないが、朝日新聞は20年後になって、わざわざこれが誤報であったと紙面で謝罪した。このことで、当時の資料がかなり明らかになった今も、強制連行はなかったと思わされている人はかなりある。権力による歴史の偽造はこのようにして進むのだろう。

慰安婦の徴募はいろいろな手段で行われた。日本の国内で行われたと同じ様な「身売り」もあり、なるべく穏便な手段で集めるのがやはり基本ではあっただろうが、「○月×日までに慰安婦××名送れ」などという軍の電文(例えば台電九三五号)も残っているように、軍の命令系統を通じた指令だ。徴集現場も、員数あわせには手段を選んでおれなかっただろう。強姦事件で軍規の乱れを防ぐためと理由づけたのだから、期日までに十分な数の慰安婦を確保することも軍事作戦の一部だったのだ。 徴募に関してはヤクザが軍の命令として動き回ったことが各地の警察記録にある。

強制があったことには確実な証拠がある。最も確実な証拠のある軍による強制連行の例はインドネシアで起こった「白馬事件」とよばれている事件だ。白馬というのは当時の隠語で「白人女性に乗る」ことを意味しているようだ。インドネシアには数カ所に白人女性を使った慰安所があり、総計六五名のオランダ人被害者の事例が記録されているが、特に有名なのが一九四四年二月新設のスマラン慰安所の事例である。

これは南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が十七歳以上のオランダ人女性をスマラン慰安所に連行して、少なくとも三五名に売春を強制した事件で、まぎれもない軍による強制と言える。オランダ抑留民団が必死の抵抗を示し、陸軍省から捕虜調査に来た、小田島薫大佐への直訴に及んで、軍中央も知らないでは済まされないことになった。オランダへはすでに様々なルートで事態が知らされており、国際世論の反発を招くことが必至の状況だったので、軍はやむなく二ヶ月後にこの慰安所を閉鎖する処置をとった。小田島大佐は陸軍省の捕虜管理部であり、これらの女性は慰安所に送られる前から収容所に入れられていたので、捕虜虐待問題として扱われたが、戦闘員でもない一七歳の女の子を捕虜というわけにもいかない。これは、どう見ても住民虐待つまり慰安婦事件そのものだ。

こうした日本側の処置などが、記録に残ってしまったことと、被害者が白人だったことで、連合国の追求がきびしく、関係者が戦犯に問われて裁判記録が残ってしまったことが今では決定的な証拠になっている。朝日新聞の追跡調査で、関係者が事実を認めた証言をしている。インドネシアでのオランダ人慰安婦についてはオランダ政府の調査報告書が出ており、白人慰安婦は総数二〇〇から三〇〇人と推定されている。報告書は客観的なもので「自発的」な慰安婦の存在も認めているが、それはごくわずかだ。こういった証拠を示すと、今度は一部の兵隊の逸脱行為であって、例外的なものだという言い逃れも出てくる。しかし、この事件はそういった言い逃れも許さない。

強制連行を行ったのは方面軍直属の士官候補生隊であり、逃亡兵でも敗残兵でもない、れっきとしたエリート部隊の組織的行動だ。 連合軍のバタビア裁判では、この件で人道上の罪として、死刑一名を含む十一名の有罪が宣告されている。死刑になったのは強制連行を指揮し、自らもオランダ人女性に暴力をふるって強姦した少佐である。全体の首謀者と考えられる大佐は戦後復員していたが、戦犯容疑で呼び出しを受けた時点で自殺した。組織的犯罪に対する裁判だから命令されて強制連行に加わっただけの兵士は罪を問われていない。「個人的逸脱行為」は通用しない。 「希望者だけに限れ」という司令部の命令が十分伝わらなかったせいで、軍に責任はないというのも有るが、司令部が「希望者に限れ」と命令していたにもかかわらず、その命令に従わなかったのが事実ならば「抗命罪」でさらに重い罪に問われるはずだ。しかし、軍はいっさい処分を行わず、この事件に関する軍法会議は無かった。

「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰安婦の幽閉処置を解除しただけで、軍としては何等処分を行わなかったことは重要な点だ。陸軍刑法では「戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ一年以上ノ懲役ニ処ス。」とあり、慰安婦の強制連行・集団強姦は、もちろん日本軍の軍規に照らしても大きな罪だったわけだが、まったく処分の対象としなかった所に、慰安婦の強制連行に対する軍の考え方が示されている。関係者を処分しなかったのは第十六軍司令部あるいは南方総軍司令部の判断だが、もちろん第十六軍だけが特殊な判断基準を持っていたという根拠はない。

日本軍では慰安婦の強制連行を罪悪とする考えが無かったのだ。女性や土人(現地人)を蔑視し、命を捨てる覚悟の皇軍兵士が女を犯したくらいで処罰されるべきでないという思い上がりがあり、略奪をなんとも思わぬ教育がなされていた。慰安所の設営にも罪の意識がないから、中曽根泰弘は戦後も慰安婦問題がクローズアップされるまで、自分の選挙パンフにニ三歳の若さで軍の主計長として、慰安所を設営したことを自慢していたくらいだ。

事件は頻発していたにもかかわらず、日本軍が実際に、強姦や住民虐待で処分した実例は非常に少ない。罰則はあっても実際上は、お咎めなしだったと言える。強制連行・集団強姦は、組織的意図的に黙認されていた。軍人や軍に雇われた無法者が強制する売春があちこちで黙認され、オランダ抑留民団 のようなバックをもたないアジア人はみな泣き寝入りしていた。それが慰安婦問題の実態だ。一度は閉鎖されたスマラン慰安所も白人ではない慰安婦を使って後に再開されている。再開後の慰安婦徴募についてはバタビア軍事裁判でもとりあげられなかった。連合国側でも、アジア人の人権についての意識が不十分だったのだ。

朝鮮半島での強制連行
慰安婦の証言はもちろん重要だが、それにたよらずとも、極東軍事裁判関係文書の中からモア島で五人の現地女性を兵営改造の慰安所に強制連行した中尉の尋問記録(検察文書五五九一号)が見つけられているなど、確実な軍の強制連行の例は他にもある。中国での裁判でも 一一七師団長鈴木啓久中将が慰安婦の誘拐を行ったという 筆供述書を提出している。強制連行の証拠はいくらもある。

それでも強制連行はなかったという主張があちこちで行われているのは、朝鮮半島での状況の混同によるものだ。「強制連行」という言葉のイメージからは、軍人が銃剣を突きつけて無理やり連行するといった白馬事件のような情景が思い浮かぶが、朝鮮は戦地ではなく「国内」だったので、軍が直接表にでるようなことは起こりえない。そのかわり憲兵警察制度を使って、行政組織や警察に徴収を肩代わりさせることが出来た。やり方が巧妙悪質になっただけで本質的には同じことだ。

朝鮮総督府の資料は終戦時にほとんど処分されて残っていないから、こうした強制連行の実体を具体的に示すことは難しい。それを逆手にとって「証拠が無い」と居直っているのだ。慰安婦問題の研究者である中央大の吉見教授が「朝鮮半島では強制連行の証拠は見つかっていない」と発言したことを拡大解釈して「強制連行の証拠は一切ない」などと言いふらしている。

慰安婦を強制的に集めるためには、「看護婦にする」とか「工場で働かす」とかで遠くへ連れだし、慰安所で強姦してしまうことも行われた。日本に反抗した親をとらえて、親を助けたければ慰安婦になれとせまったケースもあった。憲兵や警察が、女性を拘束して、列車に乗せてしまうと云う例もある。村長や自治会長等を通じた徴集の割り当て等も行われたようだが、慰安婦の証言でも、日本に協力した朝鮮人の行動などについては、なかなかはっきりしない点がある。どのような場合でも、慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきだったわけだが、それが行われていないことは確実だ。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはない。

日本は男性朝鮮人・中国人を多数強制連行して鉱山やダム建設現場で酷使したことがはっきりしており、しかも軍規は強姦・略奪に甘かったとなれば、よほどはっきりした無罪証拠を発見しないかぎり、朝鮮でも大量の強制連行があったと考えるべきだ。多くの強制された慰安婦がいたことは韓国では常識になっている。「証拠がなければ強制連行があったとは言えない」は日本側の勝手な理屈でしかない。 安倍晋三がブッシュ大統領に話をしたときも、この点をとがめられたようだ。

朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことだ。現在日本で裁判をおこしている九名の元慰安婦達は全員が二一歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずだ。もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしている。

慰安婦の悲惨な実態
女性が不特定多数を相手に、性奴隷としての生活を強いられることは屈辱であり、悲惨このうえないことは自明だろう。慰安婦は将校用、下士官用、兵用にわけられ、将校用には内地から来た日本人のプロがあたり、アジア人は兵用として、ひどい場合には、わらむしろで囲っただけの「部屋」の前に、兵隊が並んで順番を待つ「公衆便所」状態だった。休む間もなく次々に何人もの「処理」をさせられる代償として軍が勝手に決めた定額料金を受け取るのだ。連隊長の許可を得なくては外出もできない監禁状態の場合もあり、衛生状態も悪く、前線近くまで連れていかれた人では、終戦まで命があった人は多くなかったかもしれない。

資料の中にはミッチナ文書のように慰安婦の生活が「安楽な生活」であったかの記述のあるものもあるが、よく読めば朝鮮人、中国人の慰安婦は未経験者が大半で、未成年者も多かったと言う違法性が読みとれる。親の借金の肩代わりの前金に縛られ、仕事内容も騙されていたことも書いてある。とても安楽などという状況ではない。戦後も、過去を隠してひっそりと生きて行かねばならなかった。元売春婦などと名乗り出るのは容易ではない。現在名乗り出ているのはごく一部で、親類縁者に迷惑のかからない、独居の人がほとんどだ。

慰安婦は高収入だったか?
慰安所の料金は昭和13年当時「兵 一円五〇銭、下士官 三円、将校 五円」などと決められていた。相手によって値段が大幅に違う妙な設定だが、軍が有無を言わさず値段を決めたから出来たことだ。実際は軍が「キップ(花券)」を発行して、階級に応じて給与から天引きしたようだ。慰安婦は値段交渉の余地なく花券を持った客の相手をさせられた。

当時の兵士の給与が月一〇円程度だったので五円というのは相当高い金額に見える。しかし、当時の内地のサラリーマンの月給は一〇〇円くらいだから、むしろ兵士の給与が異常に低かった。これは兵士の給料というのは、住居費、食費、被服費が差し引かれたあとの小遣いという意味合いだったからだ。軍人も自宅から通勤するサラリーマン的な位置、中尉くらいになると月給一〇〇円だった。

客の九〇%は下級兵士だったわけだから「売り上げ」も知れている。一日一〇人としても月三〇〇円くらいで、その多くは経営者の懐に入ったはずだから、「高給取り」のはずがない。支払いは軍が勝手に発行する通貨「軍票」での支払いだったから、戦後は紙くずになった。

しかし、元慰安婦の中にはかなりの金額の貯金があったとして、その返還を求めている人がいる。これには少し事情がある。その人の説明によると、これは給与ではなく、「チップ」をためたものだそうだ。一部の慰安婦はチップを沢山手にしたことになるが、貯金の日付けをみると、殆どが終戦間際になっている。

軍票というのは何の裏づけもなく印刷した通貨だから、あまり通用価値はなかったが、公式には内地の円と等価と言うことになっていた。軍がいくら軍票を発行しても内地がインフレにならないように、外地で貯金はできても内地(朝鮮を含む)で引き出すことは出来ない定めになっていた。それでも、事情がよくわからない慰安婦たちは収入をせっせと貯金したのだ。

兵士たちは他に使い道もなく、内地に送金もできない「軍票」を慰安婦にチップとして渡したものが多くいたようだ。特に終戦間際には、紙くずになることが確実で、大量発行で超インフレ的に使用価値を失っていた軍票を持っていてもしかたがないので、どっさり慰安婦にくれてやったのだろう。

軍票は当時の慰安婦の生活にとってもなんの役にも立たないものではあった。国に帰っても引き出せない郵便貯金は詐欺のようなものだ。しかし、今となってみれば、円通貨と等価という当時の公式見解を利用して、返還をもとめることも論理として成り立つから、慰安婦が一矢を報いたことになる。しかし、これを根拠に慰安婦が高収入だったなどと言うのは、もちろんデマである。

慰安婦はどの軍隊にもあったのか?
残虐な戦争に売春や強姦行為はつきものと云われるが、日本軍には異常な密度でそれがおこり、慰安所を制度的に持つ様になった。軍人は買春があたりまえとする考え方の異常性には軍の内部にすらも批判はあって、陸軍病院の早尾軍医中尉は論文で「軍当局ハ軍人ノ性欲ハ抑エル事ハ不可能ダトシテ支那婦人ヲ強姦セヌヨウ慰安所ヲ設ケタ、然シ、強姦ハ甚ダ旺ンニ行ハレテ支那良民ハ日本軍人ヲ見レバ必ズコレヲ恐レ」と指摘している。

現代の軍隊はどこも慰安所を持っていまないし、当時もイギリス軍やアメリカ軍には軍の慰安所はなかった 。ドイツ軍には小規模な慰安所があったそうだが、強姦事件多発のためではなくもっぱら性病の管理のためだった。戦後、占領軍が日本で慰安婦を要求したと云うまことしやかな噂 が流れたこともあるが事実ではない。日本政府が、アメリカ軍上陸の前に売春施設を勝手に作っただけだ。近代軍隊でほぼ全軍にわたる規模でこのような事をしたのは大日本帝国だけだろう。

 戦場の緊張を長期に渡って続けるには無理がある。通常の軍隊は帰休制度を持ち、ローテーションを組んで戦うのだが、日本の兵士は消耗品扱いで、一度出征すれば死ぬまで戦わされた。兵站・補給を考えぬ無理な戦線の拡大は、兵士に略奪を日常とする生活を強いた。倫理観が荒廃し、強姦事件が起こるのもあたりまえだ。慰安所を作らないと強姦が多発すると発想しなければならない戦争と云うものが、そもそもの国策の誤りだったのだ。

慰安婦議論と証拠
慰安婦問題全体から言えば、強制連行の事は一部の問題だ。最初は否定意見もあった慰安所の存在はもはや確定したし、政府や軍の関与もはっきりした。未成年の少女を騙して慰安婦にした非道性も否定する人は少ない。軍人が直接脅して慰安婦にした例も占領地では確認された。ここまでくれば個々の慰安婦の証言に裏付け証拠を要求してみても、いちゃもんに過ぎず、歴史事実としての認識には決着が付いたと考えられる。

それでも、朝鮮半島での強制連行に直接証拠がないかぎり強制は無かったことになるなどと言い張る人がいる。証拠がなければ「なし」になるのが論理だと言うのだ。このような人たちは政治的意図から物事を論議しているために、歴史事実の認定が裁判の有罪無罪にすりかわってしまっているのだ。
裁判は「多くの真犯人を取り逃がすほうが、ひとつの冤罪をつくるよりましだ」の原理に基づいて「証拠がないかぎり無罪」とする、片寄った判断をする。歴史事実の認定はどちらが合理的に事実と思われるかを公平に判断する。歴史ではどのような事実も決定的な証拠が無いのが普通だから、傍証を固めていって定説をつくりあげて行くのだ。

日本軍は自由に証拠の隠滅が出来たし、慰安婦はその境遇から、記録を残せる立場になかった。決して自慢にならない、忘れてしまいたい過去に関しては証言だって簡単には得られない。やっと重い口が開いたのは50年もたってからだった。こういった条件を抜きに議論すれば、終戦時に日本が行った記録の大量抹殺がまんまと成功することになる。慰安婦問題に限らず、朝鮮総督府関係の資料は意図的な焼却が行われたこともはっきりしています。歴史の風化を許さず、全体的な目で起こった事実を見つめて行く事が大切なのではないだろうか。

女化騒動----牛久助郷一揆 [歴史への旅・武士の時代]

一〇月二一日は国際反戦デーと言われベトナム戦争当時から平和のための活動にとって重要な日であるが、その起源は学徒出陣記念日である。この日は実はもう一つの記念すべき事柄が重なっている。文化元年(一八〇四)一〇月二一日は牛久助郷一揆が終結した日だ。女化騒動とも言われているこの一揆には現代的意味があることを論じてみたい。

女化騒動に関しては茨城県立歴史館の図書室で見られる野口三郎家文書「女化騒動治定記」という原資料がある。閲覧を申し込むと封筒が渡され、中に古文書そのものが入っていて驚いた。今にも破れそうでページをめくるのもはばかられるようなものだ。阿見町一区南十字路には犠牲者の供養塔もある。

牛久沼は今よりも大きく広がっていたので、当時の水戸街道は国道六号よりももっと東、今で言う県道四八号線の所にあった。中村宿(土浦)から、牛久宿を経て若柴宿(龍ヶ崎)に至る道だ。荒川沖宿は牛久宿の合宿となっていた。宿場には人馬が配置され大名行列には運搬役務が割り当てられていた。問屋が請け負い、駆り出された農民には日当が支払われたが、半強制的であり賃金の過多を問うことはできなかった。

時代が進み、交通が頻繁になってくると、人馬の供出が村内では足りなくなり、近隣の村にも役務割り当てを広げることになった。これが助郷である。付近七か村に限定的に規制された定助郷では足りなくなり三四カ村の加助郷特区が一〇年の時限立法で許可された。何時の世にもこうした規制緩和にまつわる政治利権は一部の金持ちの懐を肥やすことになる。

助郷が広がるとかなり遠方の村から牛久まで行かねばならず。一日の役務日当のために往復を含め三日も四日もかけなければならない。秋の収穫や田植えの時期に三日も家を空け、なおかつ田畑を維持しようとすれば、過労死しかねない過重な労働になる。やむなく、問屋に金を払って代人を雇ってもらうことになる。結果として、問屋はまるで税金のように助郷各村から金を搾り取ることが出来た。

なんとか耐え忍んで一〇年の期限が終わろうとした時に、久野村の名主和藤治、牛久宿の問屋治左衛門、阿見村組頭権左衛門らは、交通の発展のためとして、期間の延長と百六ケ村に及ぶさらなる加助郷の範囲拡大を願い出た。これが伝わったことで農民達の我慢は限界に達した。

小池村(阿見町小池)の百姓勇七四二才と百姓吉十郎三八才、桂村(牛久)の兵右衛門四〇才らが中心になり百六ケ村に高札を立てて女化神社への蜂起結集を呼びかけた。一〇月一六日のことである。一九日未明女化原に約五〇〇人が集合、手代木村、倉掛村、花室村、などからも到着して夜には六千人にも膨れ上がった。

集まった農民を前に、かがり火に照らし出された勇七が、一世一代の口上を述べた。

「この度、大勢の皆様を相招きしことは、兼ねてより張札場に廻文の通り、近隣村々の末迄の困窮を救わんがためなり。先頭となって我等戦うは、百六ケ村のため。そのために捨てる命、如何に惜しからん。各々少しも気遣うことなかれ。」

一揆の目的が加助郷の延長が不当であることを世に訴えることであり、そのために自らの犠牲をいとわないことの決意表明である。農民は隊伍を組み、選ばれた頭取が隊を指揮した。農民たちは牛久宿に向けて進撃を開始した。

一九日、久野村の和藤治宅を襲撃。二〇日、牛久宿問屋麻屋治左衛門を襲撃。二一日には阿見村組頭権左衛門宅を打ち破った。頭取たちは、近隣への迷惑を掛けない事と掠奪の禁止を皆々に約束させた。その結果、一揆勢は富豪の家を徹底的に打ち壊したが、相手には決して危害を加える事なく女化稲荷に引き上た。

幕府は直轄天領での一揆に驚愕して、旗本や近隣諸藩に鎮圧命令を出した。農民側では軍事的にまともに土浦藩兵などと戦って勝てるわけが無いことはわかっていたので、鎮圧兵が牛久宿へ向かっているとの情報を得て、二一日の時点で解散を決めた。牛久加助郷の問題を天下に知らすことは、これで十分にできたのだ。

農民達はそしらぬ顔で村々に戻ったが、幕府の追及は厳しかった。事件後指導者三人は捕らえられ、上郷陣屋で取り調べられさらに詮議のため伝馬町牢屋に移された。当時の常として過酷な拷問で三人とも判決を待たずに獄死した。しかし、三人は共謀した他の者たちの名を一切口にしなかった。これだけの騒ぎには当然その原因が問われ、問屋側も和藤治が一揆の原因を作ったことで追放になった。助郷そのものは、その後も続いたが広範囲な拡大は行われなかった。

アナーキーな破れかぶれな一揆ではなく、整然と計画的に行われたことと、過重労働を取り上げて、規制緩和の利権に対して戦われた点が私の言う現代的意義である。この戦いに私が住んでいるつくばからも参加している。先進的な戦いがこの地であったことは是非とも顕彰されなければならないし、このことをつくばの人たちの多くに知ってもらいたいと思う。

2.26事件を解明する [歴史への旅・明治以後]

2.26事件は、日本が戦争の泥沼に踏み込んで行く端緒となった反乱事件である。しかし、これが何に対する反乱であったのかが定かでないし、何を意図し、何が青年将校たちを思い詰めさせた原因だったのかも、実のところ、よく理解されてない。

実は2.26事件の原因は帝国憲法にあり、明治維新の過ちから来る当然の帰結であった。
法律の素人である伊藤博文が作った大日本帝国憲法には、いろいろと欠陥があるのだが、最大の問題は、ありとあらゆる権能を天皇に集中してしまった点にある。全ての大臣は天皇が直接任命する。総理大臣という規定はなく、首相は大臣たちの中の非公式なリーダーに過ぎない。大権を軍事と民政に分けてその両方を統括するのは天皇だけである。陸軍大臣・海軍大臣は大元帥の直属の部下であるから、首相といえども、天皇を通してしか、指示を出せないことになる。政府が軍のする事に口出しするのはの統帥権の干犯である。

それでも、維新元勲が政治を担っていた明治の時代には、軍と政府間に問題は生じなかった。元勲は全て武士であったから軍人だったとも言える。誰もが軍人として戊辰戦争を戦った経験を持っていたから、直接的に軍の内部にも影響力を持っていた。軍人と政治家の区別はなかったのである。しかし、維新元勲の時代が終わると事情は変わってくる。軍人は職業として戦争をするようになったし、当然のことながら政府は軍人でない官僚たちが担うようになった。政府は軍から分離されざるを得ない。

軍人にとってはこれが不満だった。軍事を知っている自分たちが維新元勲の跡継ぎであるはずなのに、政府中枢から排除されるようになったと感じたのである。明治維新の理想からはずれ、様々な社会問題が生まれたのは、政治を軍から遠ざけだせいだという考えが軍の中に染み渡るようになった。この頃、士官学校・陸軍大学といった職業軍人の養成課程が確立され、社会からは分離された閉鎖的な集団を形成するようにもなっていた。

第一次世界大戦が終わり、世界が軍縮に向かうころから、世界の趨勢を無視できない政府と権益を守ろうとする軍に溝が広がり始めた。困ったことに、こういった事態が起こると収拾がつかなくなる構造を大日本帝国憲法は、最初から持っていたのだ。

平時の軍は戦功での評価がないので、完全な学歴社会になる。帝国憲法の構造上、士官学校を首席で卒業すれば、その時点で何年か後に、総理大臣といえども口出しできない地位に就くことが決まってしまうのだ。だから、青年将校をおろそかに扱うことは出来ない。

こんなことから、青年将校たちは、社会経験が薄いにも関わらず、自らが特権を持ったエリートであると意識し始める。平時には、本務である戦闘がないので暇でもあり、関心は政治に向かう。桜会、一夕会といった政治団体が軍の内部に生まれ、派閥化して行った。

こうした政治派閥がお手本にしたのは明治維新であり、彼らは昭和維新を標榜することになった。明治維新は、結局、薩長の青年将校たちが起こした武力クーデターであった。明治維新を礼賛する限り、天皇を担いでおきさえすれば、クーデターは許されると言う考えを否定することは出来ない。

彼らは平然とクーデターを実行する主張を繰り返し、特権意識をあらわにしていた。議論を尽くすよりも、命を懸けて武力を用いるのが美徳だとする価値観まで見受けられる。実際に10月事件、3月事件といったクーデター未遂事件を起こしているが、まともな処分はされていない。クーデター容認論は軍全体に染み渡っていたのだ。明治維新を正当な行為とみなす限り処分などできない。「軍部の独走」は、大日本帝国憲法のもとで、最初からプログラムに組み込まれてしまっていたのである。

この当時、政府を運営していたのは、政党の代表者たちであったが、その実態は官僚出身の政治家だった。財閥や地主層の意向を受けて、経済政策を軍事に優先させようとしたのだが、折からの世界恐慌で困難に陥り、そのしわ寄せは労働者・農民に困窮を強いるものとなっていた。これが政党政治の腐敗と映り、クーデターの必要性を確信させるもととなっていたことも否めない。しかし、救民を口にはしたが、具体的な施策はなく、もちろん、これがクーデターの目的であったわけではない。

天皇が支配する理想的な神の国である日本で、なぜ労働者・農民が苦難しなければならないのか、それは、「君側の奸」が天皇の意向を妨げているからだとする単純な考えは、軍事しか頭にない青年将校たちにもわかりやすかったのである。大川周明や北一輝の「理論」がもてはやされた。出世して重要なポストに就いている「君側の奸」を取り除くことは尋常な手段ではできない。自らの命を捨る覚悟の志士の決起が必要だとするテロリズムの結論は容易にでてくる。

どの派閥も、基本的な政策主張は同じだ。軍事最優先で、軍縮に反対し、軍事予算を増やすことにつきる。それが大元帥である天皇への忠誠であるとするところも同じだ。ただそれをどのように実現するかで、温度差が生まれた。武力を使って強引にやれば良いとする皇道派と、武力を使うことも辞さないが、まず陸軍大臣などの地位を使って政府をねじ伏せるという統制派が主な流れになった。

当然ながら、陸軍大学出身者など、軍の主流に近いところに統制派が多く、連隊など現場に近いところに皇道派が多かった。反軍縮でも、皇道派は兵員の増強を第一の課題としたが、統制派は軍備の近代化に熱心だった。陸軍大学を出た「天保銭組」に対する士官学校だけの「無天組」の反感も対立に輪をかけた。

どちらも、様々な問題の解決を領土の拡大、対外侵略に求めた。皇道派はソ連主敵論を唱え、ソ連領土への侵攻を策していたが、統制派は中国を十分平定してからソ連に立ち向かう主張をした。相手には広大な面積があるのだから、冷静に見れば、どちらもそう簡単ではなく大言壮語の競い合いのようなものだと言える。

考え方もさることながら、派閥の常として、交友関係によるつながりや、機密費の奪い合いという側面もあった。皇道派の陸軍大将荒木貞夫は、取り分けこうした派閥形成に熱心であり、組織を横断して青年将校を集め、酒を飲んだり、議論をしたりで人気を集めた。こうした青年将校の支持をバックに、軍内での地位を高めようとしたのだ。酒席の費用は軍の機密費から出ていた。

荒木が陸軍大臣になったこどで、極端な派閥人事が始まった。統制派と思しき人物を地方に飛ばし、中央を皇道派で固めた。荒木が体調を崩し、真崎甚三郎大将にこれを引き継ごうとしたが、あまりに極端な派閥人事に対する反発からこれに失敗した。永田鉄山が軍務局長になり、今度は統制派による皇道派排除が始まった。

統制派が人事権を握ったことで皇道派には危機感が高まり、相沢三郎による永田鉄山暗殺事件を引起こした。このことで、さらに皇道派は劣勢に陥いる結果となった。統制派に一撃を加え、クーデターで軍事政権を作る主導権を握る以外に派閥の劣勢を回復する道がなくなる。ぐずぐずしていると、外地に飛ばされ勢力が首都圏から失われてしまう。反乱は準備不足のまま2月26日に決行されたのである。

2.26事件は、政府に対する反乱であったと同時に統制派に対する反乱でもあった。軍は皇道派を容赦なく鎮圧するのに依存なかったのだが、政府に対する反乱は軍主流も是認するところだったため、反乱軍に対する態度は揺れ動くことになった。準備不足がたたって、大物と現場の連携が取れず「玉を取る」ことには失敗した。天皇にはクーデターを支持する必然性がないから、「君側の奸」を殺され、激怒するだけであった。荒木・真崎といった皇道派首魁は無関係を決め込み、見放された青年将校たちの蜂起は、部隊を持ちながらも戦闘することもなく終結した。

しかし、政治の実権を軍が握るという思惑は成功し、それがために泥沼への道を引き返すことが出来なくなってしまった。統制派の路線で中国侵略を進めたが、粘り強い抵抗は止まず、資源確保のために南方にも侵略の手を広げて、アメリカなどとも衝突せざるを得なくなった。結果は、周知のとおり第二次世界大戦による帝国の破滅をもたらす結果となった。大日本国憲法のもとでは、避けようのない自滅への道筋であり、2.26事件はその始まりだったのである。

日米はなぜ戦ったのか --太平洋戦争の原因 -- [歴史への旅・明治以後]

太平洋戦争は日本軍による真珠湾の奇襲に始まった。開戦への経過については様々な俗論がある。曰く「海軍は反対したが陸軍が押し切った」。曰く「タイピストが休みで通告が遅れてしまったが奇襲のつもりはなかった」曰く「天皇は開戦に反対だった」。どれもこれもいい加減な話ではあるが、それもいろいろと謎が多いことの反映である。

戦争に至る前になぜアメリカとの対立を深めたかも経過的には不可解なところが多く残されている。日本帝国のまず第一の敵はソ連だった。シベリア出兵以来の敵国でもあり、社会体制が全く異なる国で、天皇制廃止などと恐ろしいことさえ平気で言うから、帝国軍人には許しがたい存在でもあった。陸軍は満州・中国についで蒙古から絶えずソ連への侵入を企てていた。1936年11月25日の日独伊三国防共協定は同じくソ連を敵視するヨーロッパとの連携で、ソ連を挟撃する体制を組んだことになる。この確固とした戦略方針からはアメリカとの戦争は出てこない。むしろソ連軍に挑みかかった1939年 5月11日のノモンハン戦闘の方が本道である。

ところが、ドイツはノモンハン戦闘の真っ最中にソ連と10年の中立条約を結んだ。ドイツのやりかたは全く信義にもとることになる。しかるに、日本帝国はドイツに抗議することもなく、なおいっそう連携を深めていくのだ。秘密資料は明らかにされていないが、ノモンハン事件は独ソ不可侵条約を促進するために仕掛けた日独連携プレーだったかもしれない。これはこの後の日ソ中立条約でも言えることだが、ソ連との条約は日独共にまったく実をともなっていない。最初から虚偽の条約なのである。

ドイツは第一敵国ソ連と不可侵条約を結んで、フランスとポーランドをまず手中に収める。当然これは英国等との戦争になる。1940年 9月23日 にはドイツのフランスに対する勝利に便乗して日本が北部仏印進駐を果たした。これで日独伊の三国の協定は軍事同盟に格上げされた。もともと中国を支援する英米は日本の友好国と言うわけではなかったが、日本も英米との対立を強め、ドイツに倣ってソ連との5年の中立条約を結ぶ。ところが、日ソ中立条約が結ばれるやいなや、ドイツはソ連に攻撃をかけた。日ソ中立条約はソ連に隙を作らせてドイツの電撃作戦を成功させるための芝居だったかもしれない。

日本が本気でソ連と友好を結ぼうとしたのなら、これまたドイツの信義が問われる問題であるが、日本はますますドイツとの信頼関係を深める。日本がソ連との友好を全く考えていなかったことは関特演つまり関東軍特種演習に示されている。特演というのは単なる演習ではない。陸軍の動員には時間がかかるから戦争は必ず特演という形で始まるのだ。真珠湾出撃もニイタカヤマノボレの電文がこなかったら特演と呼ばれていたはずだ。ドイツの電撃作戦に呼応して70万の大軍を満州国境に集結させ、その総力ぶりは、甲子園野球すら中止させるほどのものであった。日ソ中立条約からわずか三ヵ月後のことだがまったく中立どころではない。

このとき天皇も裁可した『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』では、「独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と言う条約破りの決定までしている。このことで日ソ中立条約も実質廃棄されたとみるべきだろう。後にソ連が終戦間際に連合国側で参戦したことをあげつらっても噴飯物でしかない。しかも不意打ちではなくソ連は1945年4月に条約破棄を通告しているのだ。

結局、関特演は戦争にいたらなかった。その理由はノモンハンで苦汁をなめた陸軍はソ連との全面戦争に踏み切れず、海軍が主張する南方侵出に大方向転換をしたからだ。日米開戦はむしろ海軍主導だ。もし、今すぐソ連に立ち向かわないなら、長引く世界戦争を勝ちぬくには南に行くしかない。同盟国ドイツとの戦争にアメリカが加わるのは時間の問題だし、そうなれば日本は石油の供給源を失う。南方の石油を確保しておくことが戦争遂行の上では絶対に必要だ。1941年6月にはオランダとの石油交渉を打ち切った。武力で石油を確保する宣言のようなものだ。 7月28日の南部仏印への進駐で、アメリカとの対決姿勢も明確にしたことになる。仏印進駐でアメリカがそこまで怒るとは思わなかったなどという回想もあるが、それは「オトボケ」だろう。開戦は7月2日の御前会議で決定したと言える。

当然ながらアメリカは石油の禁輸という経済制裁に出た。外交的にはまだアメリカとの石油輸入交渉を続けているが、日本はもう7月の段階で「戦争も辞さずの決意で交渉に臨む」と決定しているから、この交渉の成り立ち得ないことは自覚していただろう。アメリカの盟友であるイギリスを攻撃しているドイツとの軍事同盟に身を置きながら、中国侵略を続けるための石油を供給しろとは虫が良すぎる交渉だ。まさかアメリカが要求を呑むはずもないのだが、ハルノートではっきりと断られるまで交渉を続けた。記録によれば交渉の当事者は結構真剣に交渉している。これは、アメリカにはヨーロッパやアジアの戦争に巻き込まれたくないという世論も強かったからで、日本に万が一の期待を抱かすような態度もあったようだ。

ハルノートではアメリカの要求が中国からの撤退と日独伊3国同盟の解消であることをはっきりと示した。しかし、日本が要求を呑まなかったらどうするとは書いていない。経済制裁はすでに行っており、要求に答えなくとも何もしないというのだから論理的にはこれが真珠湾攻撃の理由ではあり得ない。しかし日本側には事情があった。アメリカと断絶したままで戦争するために日本は南方諸島に侵攻して石油を獲得するつもりであったが、そうなればフィリピンを領有するアメリカとの衝突は避けられない。戦争を覚悟して出撃したアメリカ艦隊と正面衝突してもかなわない。交渉が続いているうちに奇襲することが必至なので、最後回答が出てしまうと一刻も早く戦闘を開始する必要があった。軍と政府の温度差がなくなり一路戦争へと突き進むきっかけは確かにハルノートではあった。

軍の動きは政府に先行しており、ハルノートが出た11月26日にはもうとっくに戦争に出発してしまっていた。公式に開戦を決めたと言われる12月1日の午前会議は2時間で終わり、天皇は発言もしていない。連合艦隊旗艦の戦艦長門は10月6日に横須賀を出港。「9軍神+1」の特殊潜航艇による特攻隊などは早くも4月15日に編成され、11月18日には真珠湾に向けて「伊22」で倉橋島を出港している。その他の空母群も早くから12月7日の真珠湾攻撃を目指した航海を開始しており、戦争はすでに始まっていた。最近の研究では一部の新聞記者でさえ11月13日には12月7日の攻撃予定を知っていたというくらいだ。ハルノートが出ようが出まいが12月7日には戦争が始まっていただろう。日清戦争でも日露戦争でも日本政府が宣戦布告するのは軍が戦闘を始めてからだった。

こうして日米開戦までの経過を見てみると、日本帝国は石原莞爾の世界最終戦総論のような構図に動かされていたことがわかる。ソ連ともアメリカとも場合によってはドイツとも戦う。その相手の順序は単なる戦術に過ぎない。世界は必ず食うか食われるかであり、恒久的な平和共存はありえないという考えは当時の日本では軍部に限らず一般的な認識にまでなっていた。今でこそ笑止な言葉だが、当時としては侵略は「する」か「される」かであり、自衛とはすなわち侵略することだった。だから自衛のための大東亜戦争戦争などと言うあきれるような言辞が飛び交っていたのだ。

第一の敵国がソ連であったことから日独伊三国同盟となり、アメリカとの戦いに必然的に行き着いた。ノモンハン事件中の独ソ中立条約で、3国協定を解消し日英米対独伊ソの路線を取ることも出来たのだが、松岡洋右などの親独派の情報を昭和天皇は信じてしまったのである。昭和天皇はこの事を後世まで根に持っていて、それまで、頻繁に参拝していた靖国神社への行幸を松岡が合祀されたと聞いたとたんに一切取りやめてしまった。

たしかに欧州の情勢はロンドンに爆撃の手が及び、モスクワ陥落も近いように言われていた。しかし、真珠湾攻撃の時点ですでにレニングラードの独軍は苦戦に陥っていた。松岡の情報網がいい加減だったにすぎない。真珠湾の3日後に独米戦が始まっているから、奇襲はもちろんドイツと示し合わせてのことだ。アメリカと戦う勝算については天皇も何度も質問したし、繰り返し検討された。当時の論調は、著者も出版社も隠してしまって今の日本では手に入らない本に多く記述されている。シカゴ大学の蔵書にはこういった戦時中の日本語文献がかなりあって面白い。

アジアを支配する日本と欧州を支配するドイツがアメリカを挟撃する。奇襲攻撃で太平洋艦隊の大半を沈めておけば、南方で石油を確保する時間的余裕は十分にある。アメリカは日本の20倍の生産力を誇るが、南方資源を手に入れれば日本の生産力は軽く3倍になる。ドイツは全欧州の生産力を投入するのでアメリカの半分はある。それでもまだ生産力に差があるが、戦争は生産だけではなく軍事力の戦いだ。挙国一致で戦える日本と、民主主義と称して勝手な振る舞いを許しているアメリカでは集中力がちがう。戦争が長引けばアメリカ国内には厭戦気分が蔓延し、革命含みの労働争議が頻発するはずだ。日露戦争の時のようにこの機を狙って有利な講和が期待できる。

これが、昭和天皇が率いる日本帝国の読みだったが、見事にはずれた。真珠湾では機動部隊の主力である空母を一隻も捉えられなかった。これで制海権を確保する筋書きが全部狂ってしまった。しかし、最大の問題は松岡洋右によってもたらされた欧州情勢の傲慢な不正確さだった。ドイツが負けて日本だけが世界を相手にしたのでは勝ちようがない。だから昭和天皇にとって、松岡だけはどうしても許せない存在なのだ。昭和天皇は政治家としても軍人としても中々の傑物だった。2.26事件の時の軍部に有無を言わせぬ指揮などを見ても器量がにじみ出ている。それが、40歳の男盛りに松岡ごときに迷わされたのは正に痛恨の極みであったろう。なんとか局地的勝利で和平のチャンスをねらったが、結局ポツダム宣言まで負け戦を繰り返してしまったのである。



1939年 8月23日 独ソ不可侵条約(10年)
1939年 9月15日 ノモンハン事件終結
1939年 9月 1日 ポーランド侵攻
1939年 9月 3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告
1940年 5月10日 フランス侵攻を開始
1940年 6月14日 パリ占領
1940年 9月23日 北部仏印進駐
1940年 9月27日 日独伊三国軍事同盟
1941年 4月13日 日ソ中立条約(5年)

1941年 6月22日 対蘭石油交渉打ち切り
1941年 6月22日 ドイツがソビエト連邦に宣戦布告
1941年 7月 2日 日本陸軍は関特演70万兵力動員
1941年 7月 2日 御前会議 「国際信義上どうかと思うがまあよろしい」
1941年 7月28日 南部仏印への進駐
1941年12月 7日 真珠湾を攻撃
1941年12月11日 ヒトラーはアメリカに対して宣戦布告

1942年 1月 1日 連合国共同宣言
1943年 2月 スターリングラードでドイツ第6軍が敗北
1944年 6月 6日 ノルマンディー上陸
1945年 2月11日 ヤルタ協定(ドイツ降伏後90日以内にソ連参戦)
1945年 4月 5日 日ソ中立条約 廃棄通告
1945年 8月 9日 ソ連参戦

小野妹子の行き先 [歴史への旅・古代]

聖徳太子が607年に小野妹子を隋に送った、遣隋使がわが国外交の始まりであると教科書にあり、少年達はこれを信じて年号を覚えたりもした。遣隋使を歴史的事実と考える根拠は日本書紀の記述なのだが、実は日本書紀にも遣隋使のことは一言も書いてない。

どう書いてあるかと言えば、小野妹子は「遣唐使」と書いてあるのだ。607年にまだ唐の国は無く、隋の時代だからということでこれを勝手に遣隋使と読み変えた本居宣長の解釈が今も引き継がれている。

日本書紀が編集されたのは、遣隋使よりも100年経ってからなのだが、その目的は姉妹書である古事記の前書きにあるように「いろんな俗説があって万世一系の歴史が正しく伝わっておらず、これを正す」ためであった。それまでにも「日本旧記」などいくつかの歴史書があったのだが日本書紀によって「統一」された。

だから目的に合わない所は容赦なく書き換えられた。編者は隋のことを知らなかったのではない「隋書」もよく読みこんだあとが見られる。隋が滅びて唐に変わったなどという易姓革命の思想が万世一系の皇国史観に不都合なので、唐は昔から万世一系唐であったという立場で貫いたのだ。4回出てくる遣隋使の記述は全て大唐に派遣されたことになっている。日本書紀を書いた頃には、もう当時の人は生きていない。好きなように書いても文句は言われなかったのだろう。

遣隋使以前にも中国との交流はあった。魏志に卑弥呼が載っていることを考慮して神功皇后の統治を書いた。倭の五王が朝貢もしていがこれは完全に無視している。別の系統の政権なのか、ともかくもその時代の記録は大和朝廷にはなかったようだ。大和政権にはナショナリズムが芽生えており、中国に対して臣下の礼を取る姿勢を持たなかった。だから五王の取り扱いに困ったあげくに無視することにしたのだろう。実効的には大和朝廷としては遣隋使が初めての外交ということになる。

中国側にも遣隋使の記録はあるが、こちらは当然、日本が辺境の東夷であり野蛮な民族であると言う立場で書いてある。隋書にも倭の使節の記録が4回出て来るが日本書紀とは符号しない。最初の600年のものは日本書記にまったく記述が無く、2回目の607年が日本書紀の一回目と合致する。答礼使裴世清を送り返してきた608年の3回目のあと610年の帝記にも記述があるが、日本書紀にはなく、「その後遂に絶えぬ」とそれ以降になる622年の遣隋使をも否定している。

隋書は50年後に書かれた物だから日本書紀の記事より同時代性は高い。中国には帝記、起居注の記録を残す伝統があるし、言い伝えなら50年後と100年後では随分違うだろう。日本を蛮族と見る偏見は考慮しても、裴世清が日本に行って来て、報告もしたわけだから、日本の様子等についての信頼性は高い。日本書紀の編者も隋書を読みこんで、それに合わせた記述をしたはずだ。607年の記事も隋書に合わせて書いた創作の可能性さえある。なにしろ隋を唐とさえ書くくらいだ。

日本書紀が無視した第一回の遣隋使の記録を見てみよう。尋問記録だから倭王の事を聞かれてオオキミと答えた。日本では偉い人を名前で呼ばない。この地位の根源は天孫アマタリシヒコなのだが、これを隋では姓が阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雉彌と捉えた。王妃は倭語でキミ(后)になるし王子はワカミタフリである。源氏物語に出てくる「わかんとおり」の語源だろう。

政情を聞かれて「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けざる時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねる」とわけのわからないことを口にした。おそらく倭王は天と日を兄弟とするような大人物で、朝は夜明け前から仏道修行に励み、夜が明けたなら現実世界の諸事を取り仕切るというような事を言いたかったのかもしれないが、結果は「此太無義理」でたしなめられて終わった。

風俗としても刺青が多く、文字は無いし、貫頭衣のような原始的な衣類となれば、100年後の大国日本としては芳しい記事ではないので無視したのだろう。倭王が男だったと読めることが問題になっているが、720年代の常識ではオオキミは大王でも大后でも構わない。法隆寺薬師如来光背の銘文では推古天皇(女帝)を大王と書いている。無視して後世問題になる記事ではないと判断しただろう。

第二回の記事は608年でこれが遣隋使の最初とされているが中国側から見れば二番煎じで印象が薄いし、日本側にも、ただ「行った」と言うだけでしかない。小野妹子は蘇因高という中国名まで持って達者に渡り合ったとしているが中国側の記録には全く登場しない。小野妹子が隋煬帝に謁見しておれば書が与えられたはずだが、日本書紀は百済人に盗まれて無くなったと書いている。おそらく面会は出来なかったのだろう。

持って行った国書は、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」といった空気の読めない内容で叱られてしまい、面会に至らなかったのだ。後世、国威発揚の名文として持ち上げられたりしているが、他にも匈奴が出した「天所立匈奴大単于、敬問皇帝、無恙...」といった文例も多くあり、特に尊大な文章ではない。文自体に問題はないのだが隋の皇帝にしか使ってはいけない天子という語を使ってしまったのが間違いと言うことになる。日本書紀の編者もこれを国威発揚とは受け取らずむしろ文法の間違いとして恥じたのだろう。国書のことは、意外と思われるかも知れないが、日本書紀に一切書いてない。

この使節の重要なところは文林郎の裴世清を答礼使として倭国に派遣させたことだ。高句麗に手を焼いていた隋としては高句麗の背後を脅かす倭には興味がそそられただろう。608年裴世清の来日は飛鳥寺の丈六光背の銘文からも確認できる。中国からの使者が来たことで大歓迎した様子が日本書紀にも隋書にも述べられている。日本書紀には「裴世清親持書。両度再拝、言上使旨而立之」と書いてあるがこれはウソだろう。隋の使節が東夷の族長に最敬礼することはあり得ない。逆に天皇が再拝して書状を受け取るのが隋の「礼」である。後に訪日した唐使高表仁は天皇に礼を守らせられずに国書を渡さずそのまま帰っている。裴世清が大歓迎を受け、満足して帰ったということは、隋使に対して天皇が「礼」をつくした事になる。

ともあれ、隋から使いまで来たのに気を良くして608年には大訪問団を送った。これは3回目になるが、高向玄理や僧旻といった後に政界で活躍する人物が同行しているから日本書紀としても重要であった。しかし隋から見れば裴世清を送るのに大勢で来たとしか受け取られなかった。裴世清の報告以上の記事は無い。

日本書紀には犬上三田鍬たちの第4回がかかれているが隋では「この後、遂に途絶えた。」と無視されてしまっている。特に新奇なことがなかったからだろう。その後に送られた遣唐使は国名を日本と名乗り、明らかに唐に対して臣下ではないとの矜持を持って接しており、過去の倭の五王の臣下の礼とは縁を切る姿勢が見られる。あるいは倭の五王の政権とは関係のない新しい政権だったかもしれない。遣隋使はその中間の部分であり、名前だけでなく中身も遣唐使的に脚色されている存在なのだ。

歴史と善悪 [歴史全般]

 「南京大虐殺はなかった」とか「満州国は中国のため」とか、復古調の右翼的論調がかなり蔓延している。このような人たちはいくら事実を突きつけられても見ようとはせず、「正義の日本人がそんなことをするはずが無い」とひたすら信じるのみだから、まともな論争にもならない。バブル崩壊後に落ち目となった日本の国力に落胆し、昔の夢を追いたい気持ちの現れであろう。あせりからくる右傾化現象と言える。

中には一応、論を立てる人もあるが、このたぐいの論者に共通して言えることは、判断の基準を失い「善悪」を単純に「強弱」に置き換えてしまうことである。歴史を表層で見てしまうと「勝てば官軍」としか考えられない。家康にしろ秀吉にしろ、どのような姑息な手段を使っても、政権を取ってしまえば、建国の功労者で有り、英雄と評価されるのが常である。政権獲得を争いとしか見ず、社会の発展からの必然性に目を向けなければ確かにそう見える。とどのつまりは15年戦争で日本が「悪」とされるのは戦争に負けたからだと、本気で考えてしまうのだ。

 大虐殺をやったのは日本ばかりではない、アレキサンダー大王の遠征は大虐殺の連続だった。中国との戦争はお互い様だ。フビライの遠征軍が博多湾に攻め入ったのは高々800年前のことだし、第二次世界大戦の連合国だって、植民地を持っていた。だから、日本のアジア侵略は、特段非難されるべきことではない。............と、いうわけだ。

 歴史に善悪を考える時、重要なことは人類の進歩という概念である。 昔、腕力の強い者が王と称して、他人から税を取り立ててもなんら不思議はなかったが、今それを行えば強盗でしかない。古代に奴隷制はあたりまえであったが、今それを行えば、気違い沙汰だろう。人類は進歩しているのである。こうした人類の進歩に追いつけず、古い倫理基準に固執していることが、歴史において悪と非難されるものなのだ。

 過去においては阿片貿易も「正当な商行為」として認められていたが、今ならだれしも悪と判定を下すだろう。空を覆う煤煙は頼もしい工業近代化の象徴であったが、今では公害の元凶とされる。善悪の基準は変化しているが、これは、ご都合主義でころころと評価が変わるといったことではない。人類がそれだけ進歩した結果として、高い倫理性が要求されてきたのである。現在「正当な商行為」として許されている武器の輸出や、開発途上国に飢餓をもたらすかもしれぬ食料の大量輸入も、人類社会が発展すれば極悪非道の非難を受ける日が来るだろう。

 第一次世界大戦が帝国主義諸国間の争いでしかなかったのに対して、第二次世界大戦では、連合国に「露骨な侵略主義」と闘う倫理上の優位性があったことを否めない。後発の日本は、人類の趨勢がすでに露骨な侵略を認めない段階に達していたのに、まだ19世紀的な侵略を押し進めたのだ。戦争の現場でも、人類の進歩に対する感性がなかった。古代の戦争では当たり前であった「強制連行」や「従軍慰安婦の徴発」等も、人類がもはやそのような蛮行を許さない段階に進歩した時点で行ったから非難されるのである。

 遅れて国際舞台に登場した日本は、西欧の古い基準に学び、新しい進歩を受け入れることに失敗した。民主主義の時代となっても、絶対主義天皇制を保持したままで、神の国としての使命を果たすべく戦争に邁進した。これを悪でないと考えるのは、やはり無理だ。だからこのような過去を悔後をもって振り返ることは自虐でもなんでもない。人類の進歩を見つめ、国のモラルを考えて行く上で必要なことなのである。しっかりと歴史を見つめ、日本国憲法で日本が獲得した倫理性の優位を失わず、人類の先進部分としての日本をぜひ築きたいものである。

戦争の歴史 [歴史全般]

歴史は言うまでもなく戦争だらけではあるが、いったいどのようにして戦争が生まれたのだろうか。ものごとには全て始まりと終わりがある。ならば戦争の存在が終わることはあるのだろうか。戦争が終わるとすればどのようになくなるのだろうか。戦争の歴史を少しつぶさに見てみよう。

もちろん戦争の始まりは喧嘩であっただろう。話は単純で腕力の強いものが勝つ。これが喧嘩の常識だ。しかし、単に自分の腕力だけに頼らず、助っ人をかき集めるというやからが現れると、当事者自身の腕力よりも、いかに多くの助っ人を用意できるかが喧嘩の決め手になった。喧嘩はだんだんと規模を拡大して行った。

槍や刀などの武器が発達すると、腕力というよりも、こうした武器の数、武器を使う人数が重要となり、ますます多くの人を巻き込んだ、大規模な喧嘩が行なわれるようになった。こうなると喧嘩には、政治的要素が入ってくる。喧嘩の首謀者には、多くを従わせる統率力、喧嘩の正義を確信させる弁舌のさわやかさが、重要になってくる。武器の使用により、争いには必ず死人がでることにもなった。こうして生まれた「政治と結びついた多くの死傷者を出す喧嘩」が戦争である。ただの大喧嘩ではない。

喧嘩の原因には様々なものがあった。宗教とか民族の対立は現代にも残された紛争の原因ではあるが、これを直ちに戦争に結びつけるのは早計である。仏教と神道のように共存できたものもあるし、多様な民族が交じり合って暮らしている例は多い。紛争の原因と戦争の発生は別物である。あらゆる利害の不一致が戦争の原因となった。

人類が一人一票などと言う決定方法を思いついたのは、まだずっと先のことである。古くは、相互に利害が異なる物事を決着するには、専ら神の御宣託が用いられていた。しかし、次第に変化が始まり、人類は物事を巫女の言葉よりも戦争で決着することを好むようになっていった。とりわけ、どちらに政治力があるかを如実に示すことが重要な、王位をめぐる争いには、戦争が有力な解決方法となった。社会の発展とともに戦争の規模は、どんどん大きくなっていった。

しかしながら、助っ人の数には実は限りがあった。大声で指揮しても、声の届く範囲は限られている。第一、助っ人を頼むといった戦争の準備にも話し合いが必要だった。オルグ活動、日頃からの付き合いには、もちろん限りがある。戦争の規模にはおのずと限りがあったため、日本では奈良・平安時代の戦争は言って見れば小競り合いの積み重ねであり、勝負がつくには長い年月がかかった。まだ戦争は万能ではなく、大化の改新のように、政治決着には、戦争よりもむしろテロが有効だったことも多い。

戦争の規模のさらなる拡大は、朝廷子飼いの武人では無く、新興勢力である武士によって行われた。御恩と奉公の主従関係でしっかりと結ばれた独特の倫理観を共有しており、理由を問わず主君の戦闘に無条件で参加するのであるから、オルグ活動に時間が要らない。こうして武士の登場により小競り合いの積み重ねではなく、一気に勝敗を決める大軍勢の「合戦」というものが可能になった。戦争は政治対立のさらに有効な決着方法となったのである。神様のお告げは完全に問題解決の手段からははずれた。

この時代に特徴的なことは、数ではなく、超人的な豪傑を獲得することが戦争の決め手であったことだ。豪傑を何人かで取り囲んでも、最初に踏み込んだ一人は必ず殺される。誰しも殺されたくないので踏み込まない。だから烏合の衆よりも強い一人の豪傑が有用だったのだ。豪傑としても、自分の戦闘ぶりを主君にしっかりと認識してもらう必要があったので、戦場では大声で名を名乗り一対一で対戦することが多かった。豪傑が倒されればあとは散を乱して逃げ出すと言う事が多かったようだ。

雑兵と呼ばれる狩り出された農民の役割は、戦闘よりも、むしろ武将のための馬の世話や食料、武器の運搬に終始していた。雑兵が武将を倒すと言うことはあまり無かった。装備が格段に違うし、食い物も違う。馬の後を追って戦場に走るだけでへとへとになるし、最初から戦意などないからだ。この時代の戦争は、武士たちの争いであり、もちろん、とばっちりを食うことはあったが、一般人は傍観者でも有り得た。

劉備も曹操も頼朝も、戦国の武将は全て豪傑を召抱えたがった。しかし、世界史的に見れば、こういった豪傑主義よりも、集団戦術のほうが強力であることは明らかだ。ローマでは、軽量で鋭い鉄製の武器が出来るようになる段階で、次第に集団戦法が生み出されるようになった。文化的にも文書指示が普及して、歩兵の集団訓練が出来たからだ。武器さえよければ特に超人である必要はない。ローマの歩兵軍団は、相手がどんな豪傑であろうとも長い槍で一気に集団でぶつかる戦術を取り、圧倒的な強さを見せた。

日本で最初に集団戦術を取り入れたのは、武田の騎馬隊であるとされているが、これは怪しい。世界では騎馬が戦力の決め手となったが、日本馬は背も低く蹄鉄も無かったし、舌鐙では戦闘的な乗廻しは難しい。むしろ騎馬の武将の指揮のもとに、歩兵が長槍を戦闘に突撃したと言うのが実際だろう。戦国時代の末になるとこのような集団戦術が徐々に普及した。徴兵された雑兵の活用であるが、まだ十分な威力を持つものではなかった。織田信長の強さは、雑兵の位置づけを変え、刈り集めの百姓動員ではなく、常備兵力として集団訓練したことによる。

集団戦術を決定的にしたのは鉄砲の登場であった。弾込めに時間がかかり、発射も不安定だったが、集団に組織すれば一斉射撃でどんな豪傑も殺傷することが出来た。当時の鉄砲の射程は数十メートルで弾込めに2,3分かかったので、例え三段撃ちを行ったとしても効果があったのは緒戦の一斉射撃だけであっただろう。しかしいきなり多数の武将を戦死させられては相手側の打撃は大きい。鉄砲の過多が戦争の勝敗を決めるようになっていった。こうなってくると鎧や兜は役に立たず、むしろ機敏な動きを妨げるだけのものとなる。豪傑の活躍する場も無くなってしまった。徴兵され戦争に巻き込まれる人は格段に増えた。

世界では鉄砲の発達とともにますます集団戦術が発達し、銃撃部隊が戦争の中心になり、戦争は政治問題の唯一の解決手段として定着した。戦勝国は賠償金を取り、領土・資源を獲得し、国民生活は豊かにもなった。国民戦争と言われる概念が生まれ、一般の人々も戦争に巻き込まれることになった。国民全体を動員することに成功したナポレオンの強さは、傭兵に頼る王国軍を圧倒した。政治はすなわち戦争であるという時代になったし、人々にとって戦争に参加することは生きた証であり、美徳とさえなった。正々堂々と戦って勝利することが正義とされたのである。市民生活においても決闘が紛争解決の正式手段とされた。しかし、日本では徳川300年の太平時代となり、さらなる戦争の発達は無かった。

幕末の戊辰戦争を経て、日本でも戦争の仕方は大きく変わり、西南戦争では徴兵された歩兵による銃撃戦が士族の抜刀隊を圧倒した。世界からは遅れたが、日本もたちまち戦争の世界に飛び込んで行き、一番遅くまで戦争の世界にしがみくことになった。時代は戦争万能の時代であり、物事を最終的に決着させるには戦争によるほかない。平和は戦争によってのみもたらされると多くの人が信じていた。

西洋諸国から学んだのは散兵狙撃と密集突撃の戦術である。特に後者は大日本帝国の殆ど唯一の戦術として用いられて行く。前方に展開する敵に対して、縦列のまま密集して一斉突撃する。もちろん、先頭の何人かは撃たれるが大部分は敵陣に踊りこむことが出来る。これには一種の心理戦が含まれ、勇敢に素早く進むほど損害は少なく、躊躇があるほど損害が大きくなる。突撃されて浮き足立てばもちろん命中率も下がるので、思い切って突撃すれば先頭にさえ被害が無いことも多かった。日清戦争は大日本帝国がこの突撃戦術に確信を持つ根拠になった。以来、帝国陸軍の根幹は戦争の技術ではなく「必勝の信念」に置かれるようになった。

鉄砲の出現で鎧兜が役に立たなくなったのと同様に、大砲の出現は城壁をも無用にした。やわらかい地面に穴を掘った塹壕のほうが砲撃から身を隠すには適することがわかった。塹壕陣地の登場である。日露戦争では機関銃が登場し、もはや歩兵の突撃では突破できないほどの速射が行われるようになった。日本軍は犠牲を増やすことでこれに対処し、多くの戦死者を出しながらかろうじて勝った。勝ったことで学ぶチャンスを逸してしまった。日露戦争を見学した欧米各国では早急に軍備を転換し、第一次世界大戦では塹壕を掘って縦深陣地を構築し、機関銃を装備してマジノ線など互いに突破できない防衛線を築いた。戦場はどちらも攻撃できない膠着状態を生じた。ものごとの決着をつける手段としての戦争は万能ではなくなって来たともいえる。防衛のための軍備という概念はこの時代の産物である。

この当時から、あまりにも多くの死傷者を出す戦争に対する疑念が起こって来た。もはや戦争の勝利が無条件の正義ではなくなってきた。理想論として戦争の廃絶が言われだし、パリ条約や国際連盟の結成が行われた。一方で、資本主義の発達により、植民地を獲得することが先進国の宿命であると考えられ、帝国主義国間の争いは、戦争によるほか解決の手段がないとも考えられるようになった。戦争が、政治問題の最終解決手段であるとの認識は依然として維持されたのであるから、平和は理想論に過ぎなかった。

第一次世界大戦で導入された塹壕陣地による防衛戦も突破できないわけではなく、迫撃砲による近接砲撃で機関銃座を一つ一つ潰して行き、最後に歩兵が突撃するという方法が有効だった。しかし、砲弾を大量消費する迫撃砲攻撃は補給が大問題で、兵站を無視した日本軍では十分に行われず、損害を無視した突撃が相変わらず繰り返された。もっと有効な戦術は戦車による制圧である。戦車による攻撃が登場すると、突破できない防衛線は無くなってしまった。戦争の仕方は、またもやすっかり変わってしまったのである。しかし日本は、旧態依然とした「必勝の信念」による突撃にたよるままだった。

野戦で戦車がいかに力を発揮するかは、ノモンハンでのソ連軍との衝突で惨々思い知らされたのだが、このことは終戦まで秘匿された。国家分裂状態の中国軍との戦闘では突撃戦術がまだ有効だったが、強国との戦争にそんなものが通じるわけがない。太平洋戦争でアメリカと日本の歩兵の激突は一回も無かった。ガダルカナルでは一方的に歩兵の突撃を繰り返したが、ただ戦死者を増やすばかりで何の成果もなかった。

さらに大きな変化をもたらしたのは、航空機の参入である。大量の航空機による戦闘部隊ができると、海戦でも陸戦でも航空機による攻撃が決め手となった。真珠湾で米空母を破壊できなかったことで、すでに日本海軍の敗北は決定的だった。航空機による都市空襲が行われるようになると、兵士たちだけでなく、一般市民にも被害を拡大し、多くの一般人が戦争で死亡するようになった。

陸上戦闘は、航空機と戦車で決着が着く時代になった。徹底した爆撃のあと、戦車に先導されて上陸する歩兵の役割は残敵掃討だけである。アメリカ軍にもパラオや硫黄島で戦死者が多数出ているが、これは指揮官の作戦ミスに過ぎない。残敵を過少評価して、戦車を十分配備せずに歩兵を上陸させてしまったのだ。戦車も航空機もない状態で、勝つ見込みもなく戦わされた日本軍兵士はまさに犬死であったが、アメリカ兵も死ななくて良い所で多く死んだことになる。これらの戦闘に学んで沖縄では十分な配備を行なったので、もはや米軍は上陸で大きな損失を出すこともなくなった。

このように歴史を一貫して戦争は進化してきた。逆に言えば、戦争は決して永久不変なものではなく、政治問題の解決手段として有効であったから、発達したものでしかないことがわかる。現代における戦争も、この観点で見直す必要がある。政治問題の解決手段として有効でなくなった時には、もはや戦争の必然性がなくなるのだ。

今の大国間の全面戦争では核ミサイルで全て決着が着く。しかし、核兵器の使用は世界の批判を浴びて政治的には損失が大きく、実際には使えない。政治的批判が大きく高まってしまえば政治目的は達成できないのだから、核兵器には政治問題の解決能力が無いのだ。それでは通常兵器のミサイルが有効であるかというと、そうでもない。高度に発達したミサイルは、標的よりも値段が高いと言う矛盾に突きあたる。戦争は大きな転換点に行き着いた。

航空機とミサイルで全て決着がつく時代の戦争というものは余りに戦費が高くつく。ミサイルや核兵器などは維持管理だけでも、とんでもない財政負担になる。戦争は武器の発達を促し、武器の発達とともにその規模を拡大してきた。その武器が、実際には使えないほど発達してしまったということだ。戦争への参加範囲も拡大し、一般市民を必ず巻き込むので、周到な世論誘導がなければ、戦争を始められない。これもたやすくは無い。

日本は日清戦争で戦費をはるかに上回る賠償金をせしめて、それが製鉄所建設などの工業化の源泉になったのだが、戦費を上回るような賠償金を取るなどということは、もはや出来ない。戦争は、勝っても負けても大きな負担になることが明らかになった。徴兵も容易でなくなり、戦死者家族に対する補償なども大きな財政負担になる。多くの問題を一挙に解決する手段として際立っていた戦争の有効性は失われてしまった。戦争には、政治問題の解決手段としての能力がなくなったのである。

この70年、大国どうしの全面戦争は一度も起きていない。もちろん地域紛争のようなものは続いているが、雌雄を決する対決は無かった。戦争を始めるより、なんとか折り合いをつけたほうが安上がりに決まっているからだ。弱小国への侵略でさえ、結局採算が合わずにアメリカはベトナムから撤退した。大国による小国支配は残っているが、採算性が高い、巧妙な方法に転換している。多国籍企業による資本提携やマスコミ支配といったやり方だ。

こう考えると、今各国にある軍備は実は無駄なものであることがわかる。イラクやアフガニスタンで武力は使われているが、問題をこじらせるだけで、政治問題の解決には何等役に立っていない。各国が実際には役に立たない軍備に多額の予算をつぎ込むのは愚の骨頂であり、軍事産業に対する奉仕でしかない。戦争の歴史は、もはや終わったのである。

日本国憲法が戦争を放棄しているのは、決して理想論だけから来るものではない。現実的に歴史的役割を終えた戦争を見放したのである。宗教や民族の対立は依然としてあるが、戦争でそれらが解決するとは誰も思わないだろう。資源が全くない日本にだれが攻め込むものか。日本が資源国に攻め込んだとしても、代償があまりにも大きく、それに見合う利益が得られるはずもない。

しかし、戦争で利益を得る人と犠牲を払う人が別であることから、戦争の危険は全く無くなったわけではない。戦争で利益を得る人が突っ走ることはできる。それでも、多くの人々を戦争に引きずり込むことは、難しくなって来ている。日本国憲法の下で、遅々とした発展ではあるが、人々の意識は高まり、たやすく命を投げ出さないようになって来てはいるからだ。

戦争の現実が見えず、まともな判断ができないバカだけが戦争を煽るが、やがて人類がそれを見破ることは確実である。日本国憲法の先見性は、改めて評価されるだろう。

特攻隊の真実 [歴史への旅・明治以後]

「君のためにこそ俺は死ににいく」は石原慎太郎がプロデュースした特攻隊映画だが僕はこのタイトルを見て、昔学徒兵だった先生と話した時のことを思い出した。あの馬鹿げた戦争に多くの人々が抵抗なく駆り立てられて行ったことが不思議で、「本当に天皇陛下のために死ぬ気だったんですか?」と聞いてみた。「いや、大学生は天皇とかお国のためで死ぬ気になるほど単純じゃない。しかし、日本全体が危機に瀕していて国民同胞のためには死ぬことも必要だという考えにはコロリと丸め込まれてしまったのだよ。」と言うのが先生の答えだった。

最近の愛国心宣伝の手口はこれに近づいている。文科省の「心のノート」は田舎の風景や、隣人、郷土への愛着を持ち出し巧みに「国家」への「愛」に導く。安倍前首相が提唱した「美しい国日本」もこういったすりかえを狙ったものだ。死にに行く若者の悲しみを描いているこの映画は戦争賛美の映画ではないという弁護もがあるが、もちろん世の中に戦争賛美の映画などと自称するものはない。戦争そのものが「平和のため」に行われているくらいだ。露骨な表現の「国のため」を、「君のため」と言い変えて、やんわりと戦争賛美を注入する所がこの映画の悪質な意図だろう。

「コロリと丸め込まれ」たのだが、よく考えてみれば「死にに行く」ことはちっとも「君のため」にはならなかった。もはや戦局は敗色濃厚であり、特攻隊は少しでも有利な講和を得ようとしてのことだった。「有利」とは誰のためのものだったのか。講和を有利にして、強大な軍部を温存したかったのか、帝国天皇制を続けたかったのか、婦人参政権は無いままにしたかったのか、財閥は解体せずに経済を支配させたかったのか、不在地主による小作制度を温存したかったのか、華族・平民などと言う身分制度を残したかったのか。もちろん「君のため」ではあり得ない。

石原に限らず、すりかえイデオロギーと若者の死のロマンチシズムを結び付けた特攻隊信奉者は結構いるものだ。神風特攻隊は評判の悪い自爆テロとは違うと主張して止まない。特攻隊は軍事施設を目指したものだからテロではないなどと言っても9.11では一機は米国防総省に突っ込んだわけで、もちろん参謀本部ペンタゴンは軍事施設だ。こういった人たちはあまりにも特攻隊の真実を知らない。冷静に考えれば自爆テロなんか馬鹿馬鹿しくてやっておれない。 特攻隊員は犬死させられた戦争の犠牲者である。

なぜ特攻隊自爆テロが馬鹿馬鹿しいかと言えば、まず、命中率が低いことである。人が操縦しているから必ず当たると思えば大間違いだ。飛行機というのは翼があり、その設計が難しいことでもわかるように少し狂えば、空気力学的に軌道がそれてしまう。上空から急降下したとしても、目標艦船からは雨霰のごとく弾丸が飛んでくる。目標に近づけば近づくほど弾には当たりやすくなり、全く弾を受けずに突っ込むことはあり得ない。パイロットに当たらずとも、翼の端に当たっただけでも軌道がそれ、結果的にはほとんどの特攻機は海に突っ込んでしまった。ねらいがつけば翼がない爆弾のほうがよほど命中しやすい。大岡昇平が調べた特攻の成功率は7%である。

通常の艦船攻撃では多数の攻撃機を用意して敵弾を分散させることで飛行機側の被弾確率を下げる。被弾確率が下がれば、それだけ敵艦船に近づけるので爆弾の命中確率も上がる。米軍では100機200機という多数の攻撃機を集中して戦艦大和のような重装備の艦船もたいして犠牲を払わずに沈めてしまった。特攻隊の場合、数機だけで出撃するのだから大量の防空砲火が集注し被弾確率が極めて高いのも当然である。とりわけ、近接信管(注1)が装備された後期には、米軍高射砲の命中率はほぼ100%になった。ほとんどが敵に近づく前に撃ち落されてしまうのだから馬鹿馬鹿しい。

さらに馬鹿馬鹿しいのは、うまく命中したとしてもその威力が大きくない事だ。爆弾を落とせば、速度はsqrt(2*g*h)で 600mの高さからだと重力だけでも時速400kmになるのだが、これが急降下の速度に加算される。ところが飛行機につけたままだと翼が邪魔になってとてもそんなスピードは出ない。九九式軽爆の最高速度は250km/hでしかない。空中で爆弾がはじけて、破片が飛び散っても軍艦は沈まない。軍艦の装甲を破壊するには突っ込む速度が大切なのだ。

威力の小さい特攻で効果を上げるためには爆弾を大きくする他ない。最初250キロ爆弾を積んで行ったのだが500キロとか750キロを積むようになり、重たくてヨタヨタと敵艦に近づくことになったのだから、またまた成功率は下がってしまう。

ところが日本軍の記録では特攻の命中率は高いことになっている。特攻攻撃の成果を見届ける偵察機は撃ち落されては困るので、もちろん敵艦船にはあまり近づけない。よく見えないから、つい贔屓目の報告をしてしまう。場合によっては戦友の無駄死にを報告するに忍びなく「空母轟沈」などと誇大な報告もしてしまう。台湾沖海戦の成果などはほとんど架空のものだったことが知られている。こういった誇大報告に基づいて特攻攻撃が有効なものとされてしまい、全機特攻などという方針が決められた。

最初の神風特攻隊である関大尉の敷島隊は5機で、米機動部隊主力に攻撃をかけ、その成果は2機が空母に突入して轟沈させ1機が別の空母に大火災を起こし、他の1機が巡洋艦を轟沈し、打ち落とされたのは1機ということになっている。これが事実なら大成果と言えるが、実のところ攻撃対象は機動部隊主力ではなく輸送空母船団つまり、輸送船に飛行甲板を取り付けて航空機を積めるようにしたものの集まりに過ぎなかった。

後の特攻とは異なり、レイテ沖海戦で米主力が手を取られている隙を突いての攻撃だったので途中で敵戦闘機の迎撃に出会うこともなく無傷で目標艦船に到達出来たのだが、ファンショウベイに向かった2機は打ち落とされたし、ホワイトプレーンズに向かった1機は艦橋をかすめたが被弾して海上で爆発した。キトカンベイでは1機が甲板に接触したが、海に落ちた。つまり、精鋭を選んだ最初の特攻でも5機の内4機は不成功だったわけだ。

しかし最後の1機は、セイントローに突っ込み改造輸送船の飛行甲板を打ち破った。丁度そこが弾薬庫になっていたために引火して大爆発で、セイントローは沈没してしまった。輸送空母ではあったがともかくも空母が沈没したことは米軍も認めた。誇大報告ではあったが後のものに比べればまだ謙虚なもので、一応実質的成果はあったことになる。大本営発表では何隻も撃沈させているのだが、実は「空母を沈没させる」ことは真珠湾でも果たせなかった(注2)日本海軍の夢であった。この偶然的な成果がその後の「全機特攻」に至らしめる契機になったことは間違いない。

結果的には熟練のパイロットを多く失い、日本のパイロットは技量的にも下手糞な即製パイロットばかりになり通常航空戦でも米軍に歯が立たなくなってしまった。実は技量の高い操縦士の場合、挑飛爆撃と言う特攻なんかより遥かに有効な手段があり、万朶隊の佐々木伍長などは特攻に出撃しながら、何度も戦果を挙げて生還した。初期の特攻では司令官がさんざ特攻訓練をさせた挙句に、責任逃れに「各自が最も効果的と判断する攻撃方法を取れ」と訓示してしまったことを逆手に取ったわけだ。なんとか敵艦まで飛べるだけの即製操縦士が特攻に出かけても、それは自爆テロにさえ至らぬ単なる自殺でしかなかった。これが特攻隊の真実である。

「死にに行く」のはちっとも「君のため」ならなかったばかりか戦争にさえ役立たなかった。特攻で全く成果があがらなくなった後期では、やたら「記念日」の出撃が多い。もはや戦果などどうでもよく、出撃させることで闘っているというポーズを取ったにすぎない。高級軍人の単なる面子のために死んだ隊員ほど気の毒なものはない。発案者の大西中将が隊員の亡霊に悩まされ、終戦の日に自殺してしまったのも、まあ当然のことだ。

(注2)ホーネット、レキシントンなどは修復不能にまで破壊されて米軍の手で処分されたが轟沈ではない。ヨークタウンは航空戦ではなく潜水艦の魚雷攻撃で沈んだ。

(注1)飛行機は高速で飛んでおり、高射砲の弾が直接機体に当たることは難しい。だから時限信管を使い、あらかじめ決められた時間に爆発するようになっていた。爆発時に敵機が半径20m以内位におれば損壊させることが出来る。しかし、実際には発射前に時間を設定するのが難しく、急降下爆撃などに対しては、設定する余裕がなかった。だから重装備の戦艦大和なども航空機の急降下爆撃に弱かった。ところが、米軍は大戦中に近接信管を開発した。近接信管を装備した砲弾は電波を発し、反射で敵機が近くにいることを検知して自動的に爆発する。これで、特攻機が突っ込んで来ても、必ず当たるようになった。近くで20mも狙いをはずすのは難しいくらいだ。末期の特攻機は全部撃ち落された。

地方の時代はやってくるのか? [歴史全般]

「地方の時代」などと言う言葉がt使われ一時はブームにもなった。しかし、いまだにそのような時代の片鱗もない。過疎の村々は年寄りしかいないし、鉄道もどんどん地方は廃線になっている。TPPで農業が壊滅すれば地方が滅びる時代にすらなりかねない。「地方の時代」という言葉は単なる願望によるものでしかないかのように思われる。

昔に遡って「地方の時代」考証してみよう。日本の古代はもちろん地方の時代だった。大和政権が国中を制覇しても、地方は半独立で独自に運営されていた。それは通信手段が未発達なためのやむを得ぬ状況としての「地方の時代」であった。文字文化が普及し、律令が整うと次第に中央集権化されて、隅々まで統治が行き届くようになった。奈良時代には公地公民で完璧な中央集権が達成されたことになっている。

これで「地方の時代」は終わったのかといえばそうではない。律令制度の結果、地方豪族は消滅し、租税は国庫に一元化され、地方自治は無く、5年ごとに交代で中央から派遣される国守が地方を治める、こうした役人はすべからく実力主義で科挙により選抜される。という筋書きではあったが、実際は違っていた。

中央集権は崩壊せざるを得ない弱点を持っている。人事は中央だから、真面目に5年も地方に行っておれば、政界から脱落してしまう。皆、代理者を派遣して自分は中央に残った。陰位ということで、高級官僚の子弟は家柄で試験に合格したから事実上の世襲制になってしまった。有力者は荘園と称する国税免除特区を手に入れるようになった。

権力は中央に集中しても土地は動かせない。中央集権のもとで、結局地方は荒れるに任された。中央集権では地方に散在する最も基本的な生産資産である「土地」を有効に使えないということだ。農民達は自らの安全を保つため自衛するようになり、都から零落してきた武人を頭に頂いて、独自の武士道イデオロギーで強固な結束を持つ集団を形成していった。これが武士の起こりだ。

鎌倉幕府は決定的な中央集権の崩壊を意味し、再び「地方の時代」となった。武士は地方に土着し、農業生産を指導した。経済は新たな発展を見た。発達の結果再び「地方の時代」になったのである。守護地頭は中央からの派遣ではなく、世襲制で、何代にもわたりその地方の発展と命運を共にした。これは地方の発展を促しはしたが、その権力の根源は中央の威光ではなく地方の実力と言うことにもなった。無秩序な地方の時代の欠点はここにある。実力で合い争う戦国時代になってしまった。

騒乱を経て結局落ち着いたところは江戸幕府という官僚化した武士による中央政府が地方を支配する幕藩体制であった。中央集権と地方分権の折衷であったと言える。民衆の統治は各藩それぞれに行われ藩札などの通貨発行権まで地方にあった。だから、江戸時代は今日から見ればやはり「地方の時代」だったとも考えられる。

再び中央集権が復活したのは明治の王政復古で、廃藩置県で幕藩体制は無くなってしまったし、地方の権限はごく限られたものになった。高等文官試験ということで科挙も復活した。知事は内務省からの派遣だったし、官吏も上部は中央からの派遣だった。地方自治なるものはもはや存在しなくなった。その一方で地方から上京した人材が文明開化を押し進め中央集権の集中力を発揮した。どの地方にも藩校や寺子屋が普及し、人材育成の体制があった。長い間地方に蓄えられたエネルギーが一気に集中した効果は大きい。

同様な現象は、ヨーロッパでも見られ、イタリアやプロシアは小国分立から統一国家の形成で急速な発展を果たした。アジアの朝鮮や中国では十分な封建制の発達がなく、古代の中央集権のまま来た。朝鮮などはソウルだけが都市であり地方都市の発達はないままであった。これが、近代化の速度が遅い原因であったと考えられる。日本の場合、長い封建制の「地方の時代」があったのからこそ急速な近代化を達成できたのだ。

明治の中央集権化は徹底したものだったが、それでも徳川300年で形成された「地方」は健在であった。もちろん、土地所有権の流動化が小作と不在地主を生み出し、地主の資本蓄積が都市の工業を興したのではあるが経済のバックボーンは依然として農業だったからだ。農業は土地に硬く結びついており動かすことができない。これが中央への経済の吸い取りを防いでいた。

中央集権による集中力の発揮は瞬発的なもので長続きはしない。中央集権が進むと、地方は荒れる。工業化が進んでしまった今では、過度な中央集権のもとで、地方の衰退が進んでいる。農業の没落で地方経済は沈滞し、文化的にも地盤沈下が進んでいる。例えば東大入学者の三分の一は東京圏であり、地方からの入学は人口比を考慮してもかなり少ない。人材供給源としての地方も成り立たなくなってきているのだ。


戦後、新憲法の下で地方自治が導入された。これは再び地方の時代を形成する機会ではあったし、工業化された時代にこそ地方の住人が自らの身を守るための自治が必要だったのだが、その意味は理解されないままに年月が経過した。自治体は補助金に釣られて年とともに中央政府の下請け機関化し、憲法が求めた地方自治は失われていった。農業の衰退が地方を決定的な衰退に落とし込んだ。


それでは再び地方の時代がやってくるだろうか?もはや農業を基盤とすることはないから土地の必要性は薄い。もし、地方の時代が来るとすれば、それは距離が意味を成さなくなるときだろう。ITの発達で、人々が、ネットワーク経由で仕事をするのが当たり前になれば、東京からの距離は関係がない。毎日出勤するのではなく、在宅勤務なら景色がよい、空気の綺麗な所に住みたいだろう。国会がネット上で運営されるならば議員はだれも地元を離れない。自然と権力は地方に分散される。会社の本社も特に所在地がなくともネットワーク上にあればよいことになる。

風景や空気・環境が生産に欠かすことのできない大きな資産と考えられるようになれば再び地方の時代がやってくる。案外、そんな日は遠くないのかも知れない。それまでは、中央集権のために地方は浮かび上がれず、バックボーンを失った日本全体がたそがれて行くのも仕方がないことだろう。

日清戦争・成歓の闘い [歴史への旅・明治以後]

大日本帝国の歴史は戦争の歴史である。開国以来日本は戦争を重ねてきた。その第一歩が日清戦争であり、日清戦争の緒戦が成歓の戦いであり、そのまた最初の衝突が世に言う安城渡の戦あるいは佳龍里の戦闘である。華々しく戦争の世界にデビューした日本の姿を伝える講談調の書き物には事欠かない。どれもが、待ち伏せして襲い掛かる清国兵の大軍、軍人戦死第一号である松崎大尉の鬼神の奮闘、死んでも喇叭を吹き続けた壮烈喇叭手など、様々なエピソードを持って語られ、日本が輝かしい最初の勝利を手にした事を伝えている。

しかし、事実は多少異なり、実はこの戦闘で、見方によれば日本は負けたのではないかということが今からここに書く主題である。戦闘詳報や当時の新聞記事などを調べて、定説と異なる結論を得たのだ。というより、この戦闘はあまりにも伝説化されていて批判的に検討されたことがなかったのではないだろうか。

日清戦争は1894年8月1日に始まり、翌年4月17日に終わった日本と清国の戦争である。明治維新で中国、朝鮮より一足早く近代化を成し遂げた日本は、早速西洋国家の後追いで対外進出を始めた。明治維新早々に征韓論というのがあって、朝鮮に攻め込むことが議論されたが、結局は政府内部でまとまらず、逆に国内で分裂して、西南戦争を始めてしまった。それがこんどは「朝鮮の独立を守るために清国と戦う」などと言うことになった。宣戦布告文の草案が何種類かあって其の中には「清国及び朝鮮国に対して宣戦を布告する」なんてのもあるくらいだから実にいい加減な理由付けだ。

そのころ朝鮮では東学党の農民一揆があちこちに起こり政情不安であった。朝鮮は清国に援助を求めた。清国は朝鮮の「宗主国」を自認しており朝鮮に問題が起これば軍が駆けつける安保条約のようなもので結ばれていた。ところがこの状況に対して、清国軍では日本人の安全は守れないとして、(例によって)在留邦人の保護という理由をつけて日本も清国を上回る大軍を朝鮮に派遣してしまった。広島にあった第5師団に大島義昌が率いる混成旅団が編成され、これに広島11連隊と岡山21連隊が属した。喇叭手美談で知られる木口小平も白神源次郎も21連隊の兵卒である。

広島は、山陽鉄道が開通して広島までの鉄道が使える様になったので、兵器・兵員の集中拠点として大変都合がよかった。広島から宇品港を出て朝鮮半島に出撃することも出来る。日本軍は西郷隆盛らが征韓論で作戦検討したとおり、仁川に上陸し、そのまま京城まで行ってしまった。朝鮮王宮に押し入り、朝鮮軍を武装解除して国王を捕虜にしたのだからこれは日朝戦争と言っても良いはずのものだ。抵抗が少なかったので華々しい戦闘にはならなかった。それでも1等卒早山岩吉が戦死しているし韓国側にも戦死者が出ている。この時点ですでに戦死第一号が松崎大尉であると云う定説が崩れる。


捕虜にした国王に「清国軍を追っ払って欲しい」と言わせて、これで清国に対する宣戦布告の理由が出来た。宣戦布告文案からは「及び朝鮮国」が抜けた。大義名分が出来たのが7月23日、7月25日には清国が日本に対抗して増援兵を送るために英国からチャーターした輸送船を襲っていきなり千人以上を殺してしまった。日本軍は真珠湾でもそうっだったが、不意打ちを食らわすのが得意の戦術で、思いっきりひっぱたいておいてから、「喧嘩だ。さあかかってこい。」と叫ぶのである。豊島沖海戦と呼ばれる輸送船襲撃事件は、まだ宣戦布告も出していない時点だから実に乱暴な話だといえる。沈む輸送船から投げ出された千名の清国兵を助けず皆殺しにしてまったのは残虐行為だが、当時のいい加減な国際法には違反していないそうだ。

清国軍は京城に攻め込むというようなあつかましいことは出来ずに京城のかなり南にある牙山を本拠に農民一揆の討伐を行っていた。増援軍は皆殺しにしてしまったから、当面は数的にも日本軍が有利である。早期の開戦が望ましい。日本としてはまず牙山の清国軍を叩こうと言うことで混成旅団が南下した。23日の王宮占拠から25日の豊島沖海戦、29日の成歓の戦いまでの実に素早い動きは充分に計算された計画に基づくものであったことがうかがい知れる。時期早尚として一時は退けた征韓論から20年。練りに練った作戦を展開したのだ。

素早い動きが出来た理由の一つは、もうひとつの日本の得意技、「補給をしない」と言うことである。太平洋戦争では補給のことをよく考えていなかったために負けたようなことを言うが、実際はよく考えた上で補給はしないことにしたのである。大島旅団からの補給の要請に対して、答えた大本営の6月29日の訓令はそれを明確に述べている。補給隊を送れば、その補給隊の食料まで送らなくてはならなくなり、きりが無い、戦争と言うのは補給無しで身軽にして始めて戦えるものだ。補給の要請なんてとんでもない。もうこれからはこんなことを言って来るな。そんな事をあからさまに書いている。

というわけで、食料や馬は原則現地調達つまり略奪でやることになった。確かに理屈は通っている。登山隊のことを考えれば、ほとんどの人員はベースキャンプから第一、第二キャンプへの補給隊になっている。山頂へのアタック2人に対して50人からの登山隊を組織する。まともに補給すれば50人中2人しか戦わないことになるのだ。逆に言えば古来、遠征軍とか侵略軍とかは全て略奪でやって来たということだ。日本軍はこれを徴発と言っているが、徴発とは強制的に入手することで値段は買い手が勝手に決める。値段をゼロにすれば強盗である。

補給を徴発でまかなうと言うのも実は楽ではない。それはそうだ。だれだって略奪されるのは好きではない。当然、現地の人は軍隊を見れば逃げ出すし、食物は隠す。馬なんかを取られたら農耕も出来なくなるから大変だ。徴発された人足は当然隙を見て逃げ出す。木口小平も白神源次郎も、第3大隊に入っており、隊長は古志正綱少佐であった。生真面目な人で上層部の信用も厚かったので、旅団が苦労して略奪した50頭ばかりの馬と人足をこの第3大隊で預かっていた。ところが牙山に向かって進軍し始めて3日目の夜、この馬と人足に荷物ごと逃げられてしまった。そのため混成旅団は食料不足に陥ってしまった。参謀長長岡外史に怒られた古志少佐は責任を感じて自殺してしまう。これが日本軍戦死の実質二人目であるがもちろん公式には戦死とはなっていない。第3大隊は大隊長不在のまま戦場に赴くのである。この混乱が第三大隊の兵士たちに無残な死に方が生れた遠因とも考えられる。

混成旅団の戦闘詳報によれば、7月28日は素砂場で野営し、7月29日早朝2時に牙山に向けて出発した。出発時刻からもわかるようにこれは単なる行軍ではなく夜襲をねらった出撃である。宣戦布告はまだだが、情況はもう開戦したも同じで、清国兵はおそらく牙山の手前に進出して来ていて明け方に成歓あたりで衝突することが予想された。連日雨が降り続いていたので、道は糠り、闇夜の行軍である。安城渡で河を渡った。ここでは戦闘は行われていない。この戦いを安城河の渡河作戦とする書き物は、詩吟の定番である「松崎大尉戦死の詩」など全て間違いと言うことになる。

ここから成歓までは田圃の中の細い一本道となる。いくらなんでも敵が山峡の要害で待ち受ける成歓まで、この細い道を縦列になって歩いて行く手はない。旅団は二手に分かれ、主力左翼隊は山伝いに東に迂回して成歓の東から攻撃する。右翼隊は陽動作戦でそのまま街道を進んで成歓の西に出るということになった。白神たちの第3大隊は右翼隊で、先頭は松崎直臣大尉が率いる第12中隊。後に続くのが10中隊と9中隊、第7中隊で、工兵中隊や衛生隊が後尾になった。おそらく木口は第12中隊、白神は第9中隊にいたと思われる。報告に出てくるのは将校ばかりで兵卒については所属すらなかなか明らかにできない。

20分ほど歩いて秋八里の手前600mの所まで来た。「キリン洞」と書いているが「佳龍里(キョロン)」だろう。雲の切れ目に弦月が出てうっすらと物が見えるようになった。前方30メートルのところに家が何軒かあり、そこに清国軍の「師」旗が2本見えた。と思ったら急に家の蔭から射撃が始まった。猛烈な射撃でおそらく400人からの軍勢だと判断したと報告しているが、戦闘詳報は必ず敵を多く報告するものだ。小屋の後ろに隠れるくらいだから実際には200人くらいだっただろう。清国軍の突然の射撃に反撃する形で戦闘が始まったとしている。木口小平はおそらくこの一斉射撃で死んだのではなかろうか。喇叭を吹く余裕はなかった。中隊長の松崎大尉もこの時死んだだろう。松崎大尉は日清戦争の戦死第一号ということもあって、その戦死は美化されて大々的に語られている。突撃してサーベルで切りまくったことになっているが、それではこの突然の一斉射撃とつじつまがあわない。戦死第一号はこの200丁以上の銃による30mの至近距離からの一斉射撃によるものと考えるしかないからだ。

第12中隊は道路から田圃に飛び降りて左側散開して伏せた。後続の中隊もそれぞれに田圃の中に入って泥まみれで散開して前方の家屋に向かって射撃しながら突撃の体制を準備した。第7中隊と第10中隊の一部は右側に回って射撃した。3時45分、突撃命令で600人が一斉に襲い掛かった。このとき進軍喇叭が鳴り響いたことは従軍した新聞記者が記録している。部隊が突撃すると清国軍はかなわぬと見て背走した。暗くて敵味方入り混じった状態では追い討ちの射撃も充分には出来なかった。一応は敵を追い払ったのだから日本軍の勝利ではある。しかし、清国側の記録では、逃げる日本軍を水構に追い落して打撃を与えて、さっと引き揚げたと言うことになっている。

この「水構に追い落として」と言うところは日本側の記録にも出てくる。21連隊の戦闘詳報にも時山中尉以下24人が溺死した書いてあるが詳しい情況は書いてない。いくつかの通俗本ではもう少し詳しく説明してある。当日は闇夜であり、泥まみれで突撃の際、増水した田圃は渕との区別がつかなかった。第7中隊の時山少尉は第7中隊と第10中隊の1分隊づつ計23人を率いて右翼側から突撃する命令を受けたが、そこは運悪く渕になっており、深みにはまって全員が沈んでしまったと言う。重い装備を背負って、泥沼に踏み込んでしまったのだから泳ぎ様も無い。溺死が多かったことからこの戦いを渡河作戦だとする解釈が生れたのだが事実は異なる。

当初の報告では時山中尉は行方不明で、溺死の事実は隠されていたが、正式な報告でははっきりと溺死と記述している。これには、敵の死体を数えたら将校1と兵卒20でしかなかったことがからんでいる。この日の日本軍の損害は合計35名だから溺死の24名を除外しないと清国軍より大きな損害となる。結局、佳龍里で戦死は将校1兵卒5で日本軍の勝利が正式報告と言うことになった。激戦と言われるにしてはあまりにも少ない損害と驚かざるを得ない。

通俗本の溺死状況をはじめ、よく言われている成歓戦の様子は疑わしいところがかなりある。「時山中尉が第7中隊と第10中隊の2分隊を率いて」と言うのも実に妙だ。時山中尉は第3大隊第7中隊の第1小隊長で、配下に5分隊70名ばかりを指揮しているのである。戦闘のさなかに自分の小隊の1分隊だけと全く別の大隊の1分隊を率いて行動するわけが無いだろう。戦闘詳報にある「第7中隊の1分隊と第10中隊の1分隊を右翼に増強し」を勝手に時山中尉に結びつけたものだろう。屍体検案書が残っている溺死者は2人だけだが二人とも第9中隊だ。一方、野戦病院の記録からは第12中隊3人第10中隊3人第7中隊1人がこの日全体の戦死者になっている。第9中隊は戦死の記録がなく、死亡15名だからほぼ全員が溺死である。結局、時山中尉とあと7人の第7中隊員と第9中隊の15人が溺死したことになるが、これは別段時山中尉に率いられての特別の行動ではないだろう。白神源次郎は第9中隊だから溺死したものの1人と考えられる。

ではどのようにして溺死することになったのだろうか。軍の記録以外にも一次資料はあって、大阪毎日新聞の高木利太、東京日日新聞の黒田甲子郎がこの日従軍している。二人とも進軍喇叭の響きを文章に伝えているが、喇叭手のことについては何も触れていない。これからも喇叭手美談が現場で生まれたものではなく、内地で作られたものであることがわかる。注目されるのは黒田甲子郎の記事で「一部は少く背進し瀦水中に陥りたる兵士十数名は最も憐なる態にて退き来るを以ってここは畢竟枝隊の敗戦と見受けられたり」とあるから、戦闘詳報には一言も書いてないが、日本軍が一時的にせよ「背進」つまり逃げたことは確かだろう。清国側の記録の通り、逃げる時に水溝に落ちたのかあるいは、攻撃の時に落ちたのかのどちらかだろう。

水死体を実況見分した報告書によれば17体を発見した場所は安城川の支流につながる水構で、佳龍里からは北に400mほども離れている。だから、「突撃」で落ちるには少し遠すぎる場所だ。行軍隊列が長くなって、戦闘が始まった時点では9中隊7中隊はまだ川を越えずにいたとも考えられるが、工兵隊、衛生隊が渡河して川堤に布陣したのだから、これらの中隊はもっと前進位置になければならないし、実際10中隊7中隊の分隊は右翼へ回って射撃している。つまり、ここの地形としては退却する以外に水構に落ちることは出来ないのである。

さらなる疑問は緒戦の部分にもある。清国軍は堂々と「師」の旗2本を掲げているのだから「伏兵」はないだろう。そもそも、佳龍里の集落は成歓街道からは100mも離れている。ただまっすぐ行軍していたのでは30mの距離には近づけない。清国軍は単に野営していたのではないか。まだ宣戦布告前で開戦はしていないし、真夜中の三時だ。「師」の旗2本を見て、日本軍はこっそり近づいて寝込みを襲おうとしたのではないだろうか。街道からはずれ30mまで近づいたところで清国軍は日本軍の襲来に気づき、あわてて撃ってきた。こう考えないと30mの至近距離から待ち伏せしていた400名が一斉射撃したことになり、先鋒の12中隊で戦死者が僅かに4名しかいないのは説明がつかない。

計画的な一斉射撃ではなかったがかなり猛烈な射撃と思われたので、日本軍も慌てて一旦は逃げた。なにしろこれまで一度も本格的な戦闘を経験したことのない兵隊たちだ。先頭部隊である12中隊が攻撃を受け、続く10中隊も浮き足立った。まだ川堤から遠くないところにいた7中隊、9中隊は、慌ててばらばらに逃げようとして一部が転落した。これが9中隊7中隊にまたがって溺死者が出た理由だ。しかし、清国軍は追ってこなかったし、日本軍の軍勢は倍以上あり、優勢なので体制を整えて反撃することにした。日本軍が再び前進すると清国軍は撤退していった。...というのが本当のところではなかろうか。突撃したと言う日本軍の本隊では戦死者が殆ど出ていない。最初の射撃戦以外に清国軍の攻撃はあまりなかったとすると12中隊の戦死者4名はやはり最初の射撃の時のものに限られる。攻撃を受けた第12中隊第1分隊の木口小平は、弾丸が心臓を貫く即死で、進軍喇叭を吹く前に死んだ。進軍喇叭を吹いたのは12中隊にいたあと二人の喇叭手北田文太郎か奥津友太郎だと言うことになる。

あまり華々しくもない最初の戦闘も軍国日本としては美化せざるを得なかった。逃げて溺れた戦争も武勇伝に変えられてその後の戦争のモデルとなったのである。

木口小平の真実 [歴史への旅・明治以後]

岡山から伯備線で一時間、備中高梁に行くと木口小平の記念碑がある。知らない人も多いだろうが、年配の老人は必ず知っている有名人だ。戦時中、むりやりにでも覚えさせられた名前で、最近また有名にしようという動きもある。「つくる会」のアナクロ教科書が戦前復帰で木口小平を復活させた。ところがその記述を見てみると、「死んでもラッパを手から離さなかったとして、その当時、有名になった。」となっている。「手から離さなかった」だけなら単なる死後硬直でしかない。ラッパを"口からはなさずに"死んだと言う職務遂行の執念がこの美談のポイントなのだから、とんでもない誤りと言える。

この教科書は内容が杜撰で初歩的な誤りが多いそうだが、自らが主張する重要部分ですらこの程度のいい加減さで作られているのには驚かされる。政治的主張だけがあって、子どもたちにまともに歴史を教えるつもりの全く無い教科書である。第三期国定教科書の「キグチコヘイハ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」は、われわれ団塊世代でも親から何度も聞いて覚えているくらいだから、戦中世代にはよほど脳みその奧まで刷り込まれたフレーズだったはずだ。

実際にどのように扱われたのかを調べて見ると、ラッパ手の武勇伝は早くも日清戦争直後から教科書に出てくる。しかし、その名前は木口小平ではなくて白神源次郎となっている。尋常小学校修身教科書は「しらがみげんじろうは、いさましいらっぱそつでありました。げんじろうはてっぽうのたまにうたれても、いきがきれるまでらっぱをふいてゐました」と書いている。岡山県浅口郡水江村(現倉敷市)には明治二十九年に建立された記念碑もあり、日清戦争直後から大変有名になって、「姓は白神名は源次郎……」と言う歌も出来たことがわかる。だから「当時有名になった」のは木口小平ではなくて白神源次郎である。

日清戦争当時はまだ国定教科書と言う制度はなかったのだが、明治35年(1904年)に国定教科書が出来ると共に「アトデミタラ、コヘイハ、ラッパヲクチニアテタママデ、シンデヰマシタ」と名前が改められ、最終的には先出の「シンデモラッパヲ」のフレーズになったというのが事の次第だ。なぜ7年あまりも経ってから教科書の登場人物の名前が突然変わると言うことになったのだろうか。原因は広島の第五師団司令部にある。

明治政府が徴兵制を敷いて、これまで武士の専権行為であった戦争に庶民を駆り立てることとなった。初めての対外戦争である日清戦争では本当に百姓・町人の兵隊で戦意高揚できるのか非常に不安だったのである。そのためどうしても下級兵の戦争美談が必要になった。海軍では三浦虎次郎という18歳の三等水兵を「まだ沈まぬか定遠は….」の勇敢なる水兵として歌い上げた。陸軍でも終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ手が戦死したという話に飛びついて尾鰭をつけた英雄談を作り上げて発表した。つまり、戦争美談が先にあって名前はあとから当てはめたのである。このラッパ手に該当する兵隊はいるのかと広島第五師団を通して21連隊に問い合わせた所、戦死したラッパ手として白神源次郎の名が帰ってきた。この話ははたちまち有名になり、新聞報道され、錦絵になり、歌も出来た。白神源次郎は庶民の英雄となり、国民の戦意は高揚し広報作戦は大成功だった。

白神源次郎がどのような人物であったかというと、元は高瀬舟の積越人足であったが、徴兵されて岡山21連隊でラッパ手となった。分隊ラッパ卒というのは戦闘部隊ではあるが実際に武器を持って戦うわけではないので兵隊の中でも軽く扱われ、二等兵が当てられる。兵役中白神の力強いラッパはかなり評判が高かった。21連隊のラッパ手と言えば白神の名前が出てくる存在であった。どうせ誰も戦死の現場でラッパの位置を確認したわけでもないので、21連隊の戦死したラッパ手として問い合わせがあれば、白神の名前が返ってきたのも当然であろう。白神源次郎は徴兵され訓練を受けただけで満期除隊したのだが、日清戦争が始まり再び予備役召集を受けた。このとき27歳で1等卒であるからもはやラッパ手ではない。白神は戦闘員として戦死したものの一人だ。

白神は成歓の戦で戦死したがラッパ手ではなかったと言うことは直後から言われていた。陸軍としてはもともと誰でも良かったのだから、白神の名でどんどん宣伝した。しかし、戦争が終わって公式戦史をまとめる段になって困ったことが起きてしまった。広島第五師団の大島旅団が仁川に上陸して最初の戦闘である成歓の戦では、前日から続く雨のため道は水田と区別がつかぬほど水にあふれて行軍が難航した。佳龍里 で待ち伏せしていた清国兵の小屋からの狙撃で戦闘が始まり、結局清国軍を蹴散らしたのだが、夜間で視界が遮られ、運悪く水溝に落ちて23名が溺死してしまった。白神もその中にいたのである。溺死ではラッパの吹きようがないではないか。

戦闘中のことだから溺死であれ弾丸死であれ名誉の戦死で良さそうなものだが、そうも行かない事情があった。佳龍里で戦死した敵兵は将校1、兵卒20でしかない。35名が死んだ日本軍は溺死した23人を戦闘外としないことには、初めての本格的戦闘で負けたことになる。清国軍が巧妙な待ち伏せで打撃を与えてさっと引き揚げたと言うのでは困るのだ。実際、清国側の戦闘記録ではそのような記述になっている。23人の溺死は、当初の戦闘詳報では隠していたが、結局公表することにした。このため白神源次郎の扱いも変えなくてはいけなくなってしまった。

日清戦争における兵卒の扱いはひどいもので、どの戦闘詳報を見ても兵卒の名前は出てこない。防衛省防衛研究所は当時の手書きの戦闘詳報を保持していて、今では○秘資料も公開されているが、将校については戦死の情況などが書かれていても、兵卒は単なる数でしかない。もちろん、ラッパ手の記述はどこにもない。白神源次郎の話は「日清戦争軍人名誉忠死列伝」(尚古堂,明27)にも出てくるし、通俗本にもなっているのだが、著者も資料がなくて書きようがなかったのだろう、中身は隊長松崎大尉や大島旅団長のことばかりになってしまっている。もともと何も書いてないのだから戦闘詳報で名前を取り違えたなどということでも、もちろんない。

さすがに、8月15日になって旅団から正式に出した戦死者名簿には兵士全員の名前が載っている。第五師団は同じ日に戦死したラッパ卒木口小平の名を見つけ出して、「諸調査の結果、かの喇叭手は白神にあらずして木口小平なること判明せり」と一年後に発表し直すことになったのである。そこで今まで誰も知らなかった木口小平の名前が急に出てきた。白神は溺死だが木口の方は確かに弾に当たって死んでいる。屍体検案書もあって、「左胸乳腺の内方より心臓を貫き後方力に向かひ深く侵入せる創管を認む」だから即死で、息も絶え絶えに喇叭を吹きつづけたなどということはありえない事もわかる。

「日清戦争名誉戦死者人名録」(明治28年、金城書院)にも、白神など1000人ほどの名を網羅しているにもかかわらず、木口の名はないから、木口の戦死については全く噂にもならなかったようだ。一度発表して有名になってしまったものを誰も知らない二等卒に取り替えるのは容易ではない。7年後になって国定教科書を作る時点で書き換えを無理やり断行することになった。無論、後の小国民は最初から木口小平だったとして暗誦させられることになった。

戦死と言っても鉄砲玉に当たるばかりではない。成歓の戦では21連隊の戦死者35名のうち白神源次郎を含む23名が溺死だった。日清戦争全体でも日本軍の死者は13488人だが、本当の戦死はその一割にもみたない。11894人が戦病死で、コレラ5991人、赤痢1660人、チフス1326人になっている。台湾出兵での病死が大きい。日本軍はこの当時から一切補給を行わず、食料は略奪による現地調達を最初から決めこんでいた。せっかく略奪した馬に逃げられたと言うことで責められ、白神たちの大隊長古志少佐は戦闘の前に自殺している。これも指揮の乱れで溺死者を出した原因だろう。補給の無い戦場で下級兵卒の苦難はひどいものだっただろう。だからこそ、英雄木口小平が必要だったわけでもある。

「終始力強い進軍ラッパを吹いて全軍を励ましていたラッパ卒」と言う意味では実は白神も木口も当てはめようがない。日清戦争は1894年8月1日に宣戦布告であるから、二人が戦死した1894年7月29日の成歓の戦は公式には戦争が始まる前の小競り合いでしかない。しかも戦闘が始まるやいなや戦死してしまったのだから全軍を励ますどころではない。あえて当てはめるなら平壌戦まで戦って死んだ21連隊のラッパ手、船橋孫市と言うことになるだろうが、そのような訂正はなかった。戦争美談というのはこのようにいい加減なものではある。

後日名誉の戦死を大いに称えられたたが、木口も白神も実は何の恩賞にもあずかっていない。当時は、戦死で一階級特進等と言う制度は無かったし、勲章も死後には与えられなかった。一方、内地から出撃を命じただけの第五師団長野津道貫は戦功で男爵となり、年額千円の恩給を受け取るようになった。昔から戦争で得をするのは偉い人、損をするのは庶民と決まっている。

万次郎と彦の接点 [歴史への旅・明治以後]

長い鎖国の時代を超えて、日本人の目が世界に見開かれるようになった時に、いち早く英語を身につけたのは、漂流した庶民だった。中浜万次郎とジョセフ彦が、鎖国日本に風穴を開けたと言える。二人が、世界をどのように理解したのか、そして日本が二人をどのように受け入れたのかは、大変興味深い。同じ時代に、同じ分野で活躍した二人ではあるが、実は驚くほど接点が少ない。共同して何かをやり遂げる意思を持ったのではなく、それぞれに時代を生き抜いたということだろう。

万次郎は一八二七年に生まれた土佐の漁師のせがれだった。父が死に、子供のときから漁に出た。何の教育も受けず、日本語の読み書きもできなかった。一四歳の時に、足摺沖で遭難し、十日間漂流して鳥島にたどり着く。絶海の孤島で半年あまりを過ごし、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。ハワイで下船して帰国を望む仲間と別れて捕鯨船に残り、一年四ヵ月の航海を続け、マサチューセッツ州・フェアヘーブンについた。万次郎の英語は、この航海中に耳から学んだものだ。若さゆえの好奇心が、日本で最初の英語習得者を生んだ。

船長に見込まれ、ここで教育も受けた。三年間の教育で、数学、測量、航海、造船なども学んだ。航海士となった万次郎は、大型捕鯨船に乗り込み、二年がかりで世界一周を果たしている。船を下りたあと、カリフォルニアで金鉱探しに参加して、これで金を稼ぎ、帰国を策した。学んだことを日本に伝えたいと言う気持ちもあったし、故郷には帰りたかったであろう。ハワイから上海に渡り、日本への便船を待ち、翌年沖縄に上陸した。

一八三七年に播磨で生まれた彦が一三歳で遭難したのは、二三歳の万次郎が上海にいたころになるから、丁度すれ違いということになる。彦は漁師ではなく、見習いに過ぎなかったが、船乗りあるいは商人だった。寺子屋にも通い、多少は読み書きも出来たことが、万次郎との大きな違いだ。伊勢大王崎沖で廻船栄力丸が暴風雨に巻き込まれ、二ヶ月洋上を漂流して、米商船オークランド号に救われた。

サンフランシスコで一年余り、船員たちの庇護の下、下働きをして暮らし、ペリーの日本遠征に乗船して帰国することになった。彦の最初の英語は街で覚えた生活英語だった。香港まで来たが、ペリーの船を待つ間に、気持ちを変え、サンフランシスコに戻る。このまま鎖国日本に戻ることに不安を覚えたのだ。日常生活に事かかない英語を身につけていたと見える。自分の意思でアメリカで生活することを選び、教育を受けるために、キリスト教徒にもなった。

こうした心の自由は、当時の日本人にはあり得ないようなものだった。たとえば、同僚の仙太郎は、ペリーと共に浦賀に着いたが、幕府の役人を見ると、土下座するばかりで一言も発することは出来なかった。後年、宣教師に連れられて帰国したが、外国人居留地から一歩も出ることはなかった。鎖国日本の桎梏は厳しく日本人の心まで支配していたのである。実際、同時代に漂流してある程度の英語を習得した日本人は、他にもかなりいたのだが、それを役立たせたという点で万次郎と彦だけが特別だった。

比較してみると、万次郎のほうが帰国の願望が強かったし、そのために日本の制約を受け入れ、決してキリスト教徒にならなかった。帰国してからは、幕府や藩にも従順で身分をわきまえた行動に終始した。彦はもっと解き放たれており、キリスト教徒となることにも躊躇しなかった。アメリカ国籍をとり、日本の身分制度を蹴飛ばしてしまう行動を取った。生まれは十年違うのだが、激動期の10年の違いが大きいのかも知れない。

琉球に着いた万次郎は、薩摩に送られ、さらに土佐に送られ、白州に引き出されての詮議を受けた。蘭学が盛んになり、土佐藩でも万次郎が得てきた知識に関心があった。万次郎を城下に留め置き、士分に取り立てた。士分といっても、御扶持切米を与えられる「御小者」だから、中間のさらに下で、苗字もなしである。

黒船が来航し対外対応が必要となった幕府は、情報を得ようとして万次郎を江戸に差し出させた。このとき、普請役格となり、中浜万次郎を名乗ることになった。直参であるが、二十俵二人扶持だから、下役であり、結局一度も江戸城に登城することはなかった。江川英龍の住み込み秘書といったところだ。江川邸で多くの幕臣に英語を伝授したが、二度目にペリーが来たときも、幕府からの信頼が得られず、通訳はしていない。英語以外の専門知識は捕鯨と航海術だったので、幕府在任中は、この指導が大きな仕事になった。

彦のほうは、教育を受けたあと商人を目指した。ブキャナン大統領と面会したりして、活動の範囲も万次郎より広い。米国市民権を取り、日本に帰っても鎖国令の処罰を受けないように考えた。日本には、神奈川に領事館を作る公使ハリスの私的通訳としてやってきた。アメリカ人に日本の身分制度は通じない。幕府の重役といえば殿様なのだが、彦はものおじすることなく対等な交渉相手として振舞っている。このあたりは、完全に時代を超えている。

彦が神奈川に来たころ、万次郎は江戸の軍艦教授所で航海術を教え、「鯨漁之御用」となり、洋式捕鯨の定着を試みていた。外国人は江戸に立ち入りが許されなかったので、万次郎と彦が出会うことはなかった。黒船騒ぎは一段落して、日本で求められることが言葉だけから、言葉で伝えられる内容に移っており、万次郎も文明を伝えようとしていたことがわかる。しかし、航海術は文献も豊富になって来ていたので長くは続かなかった。捕鯨は万次郎の専門分野であるが、これについては、日本の漁師に学ばせることがなかなか難しく、あまり進展しなかったようだ。

幕府は、一八六〇年に遣米使を渡航させることになったが、これは両者が関わるものであった。ハリス公使の通訳である彦は派遣調整の窓口でもあったし、万次郎は幕府が抱える最良の通訳である。しかし、この時も、万次郎は幕府には信用されなかった。身分制度のもとでは、漁師出身者を表舞台に立てることはなかったのだ。正使が乗るポーハタン号ではなく、護衛船咸臨丸の通訳となった。彦はポーハタン号を訪れ、村上摂津守などの使節と会見しているし、友人ブルック大尉を咸臨丸に見舞っているが、自伝にも万次郎と会ったという記録はない。

咸臨丸の航海については、福沢諭吉が詳しく書き残しているが、これにも万次郎は、ほとんど出てこない。諭吉と万次郎がウエブスターの辞書を買った、と一言出てくるだけだ。初めて訪れるアメリカの事を知っている万次郎に、色々と教わっても良さそうなものだが、その様子がない。土佐の漁師であった万次郎がアメリカで得た知識は、捕鯨と航海に限定され、社会制度や自然科学の広い理解は出来ていなかったのではないだろうか。諭吉も通訳の資格で乗船している。諭吉、彦、万次郎は得意分野が被り、お互いに敬遠するところがあったのではないだろうか。


彦は、サンフランシスコの街中で暮らし、社会制度や、商取引についても知見を持っていたから、万次郎よりも視野が広い。ハリスの通訳を退任して、横浜での商売を試みている。日本初の新聞紙を発行したりもした。大政奉還に揺れる日本で、「国体草案」を提言し、この中で二院制議会を作り、諸大名が合議する院と百姓町人を代表する院を設けることを提言しているのは画期的だといえる。坂本竜馬の船中八策どころではない。

咸臨丸が出航したあと、日本は反動で尊皇攘夷熱が高まり、ヒュースケンの暗殺などもあって危険が感じられたので、彦は一度アメリカに戻る。このときリンカーン大統領とも面会し、今度は、アメリカ領事館の正式な通訳官として日本に戻った。遣米使節団から戻った万次郎は、鳥島や小笠原に出かけての調査を行うなどの任務をやっているから、彦との接点はない。大政奉還の大波が訪れ、幕府も調査をやらせる余裕がなくなり、万次郎を薩摩に貸し出すことになった。

この頃、彦は、グラバーに誘われて領事館を辞して、拠点を長崎に移した。やはり、商売で身を立てたいというアメリカンドリーム的な発想が続いていたようだ。茶の輸出をもくろんでいたし、鍋島炭鉱開発にも関与した。薩摩に呼ばれた万次郎は、上海などに行って軍艦や武器の買い付けを手伝うことになった。グラバーは武器商人でもあったので、薩摩藩士と共に長崎にも出張した。長州が薩摩名義で武器を購入したのはこのときである。一八六七年一月六日に、万次郎と彦が対面したことは確実である。しかし、その感想とか、二人が何を話したかについては何も記録がない。

1968年は明治の政変があり、世の中が変わった。もはや武器も高値で売れなくなり、グラバー商会は倒産して、彦は神戸に住み着くようになった。彦はグラバー商会つながりで薩長と通じていたし、神戸で伊藤博文などと知り合い、明治政府とのつながりができた。神戸事件は無名の伊藤博文が政府中枢に駆け上がって行くきっかけとなった事件であるが、政治的な立ち回りが早い伊藤のような人物が、自ら通訳するようになり、もはや彦などに頼るようなことはなくなっていた。

彦は大蔵出仕となって、造幣局の設置や商業教習を行うが、ビジネスをやりたいという気持ちは変わらず、茶の輸出を行う。彦のビジネスはそこそこ儲かったようだが、一市民としての暮らしに終わった。浜田彦蔵を名乗ったが、最後は外人墓地に葬られている。結果としてはあまり成功だったとはいえない。万次郎は、幕府がなくなったあと土佐に帰るが、新政府から呼び出されて、開成学校で英語を教えることになった。明治政府の遣欧使節団に加わり世界をもう一度回ったが、大きな表舞台に出ることはなかった。

日本国憲法と国連憲章 [歴史への旅・明治以後]

日本国憲法は見事な体系性を持っており、法律条文としては、完成度の高いものだ。これが、軍人の集まりに過ぎないGHQから出された草案に基づいているとは驚くしかない。GHQ民生局は、実は、法学者集団であり、日本国憲法は、当時の最高水準の法学的英知を結集したものであった。民生局長ホイットニー准将は法学博士でもあったくらいだ。当然、同時期に作られた国連憲章とも関連がある。

日本国憲法と国連憲章の前文を比較してみよう。

日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と先の大戦に関する深い反省と人権を基礎とすることへの移行を宣言している。

国連憲章は、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し」と、やはり大戦の反省と人間の尊厳を共通の価値観とすることを強調している。

人としての権利=人権を価値観の基礎に据え、平和と民主主義実現を目指す考え方は両者に共通したものと言える。この他にも日本国憲法と国連憲章は相補性を持っており、同じ考え方に基づいたものだと考えられる所が多い。日本国憲法はGHQ民生局次長のCharles L. Kades大佐が中心となって起案したとされているが、この人は、ハーバード大学大学院で学び、ルーズベルト大統領のニューディール政策を担当している。GHQ民生部に配置された優れた法学者の一人だ。

国連憲章を起案したのは米国務省特別政務室長のAlger Hissだが、この人もCharles L. Kades大佐と同じ年(1926)にハーバード大学法科大学院に入っているから同級生だ。ニューディール政策で政府機関入りをしているのも共通だから、年来の同僚ということになる。国連憲章と日本国憲法は、こうした人的つながりからも密接な関係がある。Alger Hissはヤルタ会談からサンフランシスコ会議で事務局を率い、国連憲章を起草しただけでなく、国連の枠組みも彼の手によるところが大きい。国連の生みの親とも言える。

国連憲章の平和に関する考え方は、国連憲章2条4項に示されているように、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」と、武力行使を全面的に否認する立場だ。

これは、日本国憲法では9条1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と示されている。

日本国憲法9条2項では、それを具体化するために「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と軍備の放棄と交戦権の否定を定めているが、国連憲章はこれにどう対応しているのだろうか。

国連では、平和を守るために「集団安全保障」という考え方をする。これは集団的自衛権とは全く異なる。集団的自衛権=軍事同盟、集団安全保障=相互制裁協定とすれば、わかりやすいかもしれない。

一国が単独で自国の安全を保障しようとすれば、他国に優る軍事力を持つ以外に方策はない。各国が皆これを追求すれば、際限ない軍拡を引き起こす。二度にわたる世界大戦はこうした軍拡競争の結果とも言える。古くからこれを補う方法として軍事同盟が考えられていた。しかし、軍事同盟は、仮想敵国を想定して対立を深めるばかりであり、双方の軍事同盟が広がることで、より深刻な大戦争になる結果を引き起こした。

「集団安全保障」は、もし加盟の一国が他国を侵略したりする非道を働いた場合、他のすべての国が一丸となってこれに対処することを前もって約束する仕組みだ。仮想敵国を作らず、自ら制裁を受け入れることを表明する協定になる。国連加盟により、各国はこの協定に参加することになり、この運営は安全保障理事会が担っている。

こうした仕組みが機能すれば、どの国も他国に優る軍事力の必要が無くなり、軍拡競争の連鎖を断ち切ることができる。軍事力を低減した国の安全も保障することができる。これが国連の目指す方向性なのだ。日本国憲法9条2項は最も先進的にこうした国連の目標を実践しようとするものであったと言える。逆に、憲法9条の文言が現実性をもっているのは、軍備がなくとも国の安全が保障されるという、国連機構の存在に基づいている。国連憲章と日本国憲法は相互に強い関連性を持っていることがわかる。

軍備と戦争は必ず自衛という形で現れる。国連が世界の恒久的な平和のために集団安全保障の体制を取るということは、集団的自衛権は勿論のこと、各国の個別自衛権をも基本的に否定する立場であることを示している。将来的には世界から軍備をなくして行くことを目指しているのだ。こうした国連の示す道筋を一国の憲法として体現したものが、日本国憲法第9条ということになる。国連を基盤とする限り、よく言われるように国家は、個人の自衛権と同じく、永遠不滅の自衛権を持っているなどという議論は成り立たない。

そもそも個人の自衛権なるものも、少なくとも日本では認められていない。アメリカでは、個人の自衛権を認める立場で、銃の保有を許可している。腕力の強い相手に対して、自衛するためには銃の保持が必須だからだ。アメリカの銃保持論者がいつも言うことは、「警察が来るのが間に合うとはかぎらない。銃なしで君はどうやって家族を守れるというのか」である。

日本人は経験からも個人の自衛権を放棄したほうが却って安全であることを理解している。個人の自衛権に固執するのは過去の考え方であり、人類の進歩は、個人の自衛権を放棄する方向にある。アメリカでもそうした道が模索されているところだ。実は国家にしてもまた同じ事が言える。国連に依拠して自衛権を放棄していくのが文明の進む道である。日本国は世界に先駆けて、憲法9条で国連の目指すところを実践しようとしたのだ。

自衛権の議論では、軍事技術の発達も考慮に入れなければならない。ミサイルなどの兵器が発達してしまった現在、隣接する国から発射されたミサイルは短時間で目標に到達してしまい、これを防ぐ手立てはない。社会は発達した交通網や通信網に大きく依存するようになっており、戦時体制の構築も実際上はできない。すべての国は貿易に大きく依存するようになっており、戦争で貿易が途絶えただけでも経済が崩壊する。こういったことから、もはや、武力による侵略も、武力による自衛も現実的なものでなくなったと言える。軍備は、実際の役には立たず、軍事産業の利益を保護するだけのものとなっている。この現実に直面して、アメリカでさえ、軍備の縮小を始めているくらいだ。

しかしながら、歴史の進歩は平坦ではない。国連と日本国憲法は共に様々な苦難を強いられることになった。日本では、国連憲章の起草者がAlger Hissであったこともあまり語られない。実は、Alger Hissとその他の政府機関スタッフの13人が、共産党の秘密党員だったとしてその後排斥されたのである。Alger Hiss自身はスパイだということで査問され、結局、5年の実刑を受け、弁護士資格も剥奪された。

ソ連の崩壊後暴露されたの機密文書でも、スパイ行為の事実はなく、密告者が自己の密告価値を高めるための虚偽であった可能性が高い。証拠とされた文書の内容も何等秘密となるものではなかったのだが、秘密だということでで中身を十分公開しないまま、秘密保護法違反の判決が下された。日本でも問題になっている秘密保護法というのは、このような使われ方をするものだということを認識する必要がある。

1975年になって、「秘密文書」がでっち上げであったことがわかり弁護士資格の回復は果たしたが、いまも完全な名誉回復はされていない。起草者のことを語ってしまうと、アメリカは、国連設立が共産主義者の陰謀であったという立場に立っている事になるし、事実、軍事同盟を広げ、G5、G7といった国連を外れた枠組みを推進するようになった。

日本国憲法も歴代自民党政府によって、蹂躙されて行くようになった。その後の日本政府は自衛権を固有の権利とする立場を取り、自衛は軍備ではないという屁理屈で軍備を拡大した。そして最近は歴史の流れに逆らって、自衛の範囲を集団的自衛権にまで拡張した。

日本政府によれば、集団的自衛権(right of collective self-defense)は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」である。自衛は武力ではないという立場での言い回しだが、普通に言えば軍事同盟に基づいて他国の戦争に参戦する権利ということになる。ここまで拡張すれば、任意戦争権と同じようなものである。かつて日本は満州国を作りこれを足場にしてさらなる中国侵略を進めた。日満議定書は、

「日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衞ニ當ルベキコトヲ約ス之ガ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス」

とまさに集団的自衛権をその侵略戦争の正当化の根拠としている。集団的自衛権なるものを認めれば、あらゆる戦争が正当化されてしまう結果になる。集団的自衛権の導入が、これまで政府が取ってきた自衛力は武力ではないといった憲法解釈すら崩してしまい、立憲主義の根本に抵触することから改憲論者からも批判が起こるのは当然である。このような「権利」が国連憲章でも認められているという主張が、自民党政府によってなされているが、こういった「権利」は国連の設立趣旨に反することは、明らかである。

しかしながら、国連憲章が、個別的・集団的自衛権を容認する文言を持っていることもまた事実ではある。

第51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」

と、集団的自衛権を容認する文言になっている。実際、集団的自衛権という文言は国連憲章で初めて使われたものである。しかし、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という限定をつけており、その後の安全保障理事会による処置より下に位置付けている点もあって、手放しで奨励しているものではなく、非常に限定的に仕方なく認めていることがわかる。国連の主旨を損なう恐れのある51条には経緯があり、実は国連憲章の原案には入っていなかったものだ。

国連憲章は1944年9月にワシントンDC郊外にあるダンバートン・オークス邸で起草された。しかし、ここでは完全な合意に至らず、1945年6月のサンフランシスコ会議で最終的に署名された。何が問題になったかというと、安全保障理事会の採決方法であった。サンフランシスコ会議では5大国の拒否権が導入された。国連憲章の第2条1項には「そのすべての加盟国の主権平等の原則」を謳っているが、5大国の拒否権は明らかにこれに反する。

アメリカでは、「大統領の権限を他国にゆだねるようなものだ」と、国連加盟に反対する意見が強かった。アメリカは国際連盟にも加盟していない。結果的にはわずか6週間の審議で加盟を決議した。世界大戦の惨禍を前にして、何とかしなければいけないという機運の高まりが、伝統的なアメリカの姿勢を覆したのだ。拒否権はアメリカ議会をなだめるための妥協だった。しかし、議会保守派には、Alger Hiss一派にしてやられたとの悔悟が残った。これが、Alger Hissたちを陥れる動機にもなったのだろう。

その結果、大国の拒否権によって集団安全保障機能が麻痺するという危惧が出てきた。ラテンアメリカ諸国は、チャプルテペック規約に署名し、第二次世界大戦終了後に相互援助条約を締結することを約束していた。こういった地域的な集団安全保障も5大国の承認なしには動けなくなる。この危惧は、援助義務を約束したアラブ連盟規約に署名したアラブ諸国にも共有されていた。

地域的集団安全保障についての議論が行われたがうまく合意することができなかった。 52条では「地域的取り決め又は地域的機関が存在することを妨げるものではない。但し、この取極又は機関及びその行動が国際連合の目的及び原則と一致することを条件とする。」と、地域的な集団安全保障を認めることにしているが、53条では、「いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基づいて又は地域的機関によってとられてはならない。」と結局これを否定している。

地域的取きめによる安全保障の代わりということで、51条を入れることをアメリカが主張して決着したのが現在の国連憲章である。小国の集まりとなる地域的取り決めに代わって、大国も利用しやすい集団的自衛権を部分的であれ、容認する条項とした。これは地域を飛び越えた軍事同盟に道を開くものであったし、事実、北大西洋条約機構や日米安保条約など、その後のアメリカの国際政策は大きく、この条項に依存し、またソ連もワルシャワ条約を結んで冷戦の体制が築かれていった。

国連憲章51条の集団的自衛権は、大国の権限を容認しなければ発足が難しかったという歴史的経緯から、やむを得ず限定的に許容されたものであり、国連本来の主旨からは、消滅して行かねばならないものである。冷戦構造が消滅した今日、軍事同盟の解消が言われており、国連の目指す平和な世界の実現を進めるべき時であるにもかかわらず、日本が集団的自衛権を持ち出すのは、まったく歴史に逆行する行為と言えよう。

アメリカは、国連を都合よく利用しようとしたが、Alger Hissたちにより設立された国連は、アメリカの思い通りになるものではなかった。軍事同盟や、G5、G7といった別の枠組みを作り出すことで、国連をないがしろにしてきたことは、日本国憲法が歴代自民党政府によってゆがめられて来たことと符合する。

それでも、現在ほとんどの国が加盟する国連を無視して世界は成り立たなくなっているし、確かに国連は半世紀以上も大戦争をくい止めてきた。日本国憲法が、日本政府の急速な軍拡の歯止めになっているのも明らかである。日本国憲法は、わずか57年しか持たなかった大日本国憲法を越えて、深く日本に定着してきており、もはや民主主義や人権も、言葉の上では改憲案でさえ消すことは出来なくなっている。昨今の性急な改憲の動きは、こうした日本国憲法の浸透を食い止めようとするあせりから生じているとも考えられる。人類は進歩しなくてはならない。粘り強く改憲に抵抗し、日本国憲法を生き延びさせることが歴史に対する我々の貢献である。

日本国憲法の成り立ち [歴史への旅・明治以後]

日本国は1947年5月3日に施行された日本国憲法に基づき、以来60年以上に渡り存続している国家である。日本列島にはそれ以前にも大日本帝国があり、別の憲法に基づいていた。大日本帝国憲法は1890年に施行され、57年間だけ続いて終わった。

今日の目で見れば、大日本帝国憲法は憲法としての体を成さない粗雑なものと見える。憲法というのは法律作りの法律であり、権力を持つものが勝手に法律を作ることを規制するものである。ところが、大日本帝国憲法ではどんな法律も作り放題で、憲法自体は天皇の命令がなければ改正も提起出来ない代物だ。内閣や総理大臣の規定もなく、教育については何も記述がない。軍部の独走を許す統帥権条項などは大日本帝国を自滅させる欠陥であったとも言える。憲法の重要な役割りは為政者が何を目標として国民のために努力するかを示すことなのだが、そんなものはどこにも見当たらない。だから、極右派の人でさえ、日本国憲法を変えることを主張しても、帝国憲法にもどせなどとは言わないのだ。

大日本帝国憲法は伊藤博文の主導で極めて政治的に作られた。参考にしたと言うプロシア憲法でさえ、もう少し権力を分散させているが、なんでも大権にしてしまう考え方は、「玉」を手にした方が勝ちという、明治維新クーデターの思想を色濃く残していると見ることもできる。幼少の睦仁天皇を手中に入れた薩長が、大政奉還後も最大の勢力であった徳川を始めとする公武合体派を駆逐した手法も、これなら正当化されるからである。井上毅が実務を担当したとされているが、伊藤が書簡で「忠実無二の者」と評しているように、伊藤の秘書に過ぎず、起草も伊藤の別荘で行われたくらいだから、伊藤の主導は動かない。伊藤は長州藩の足軽だったから、一応松下村塾に通ったりしたが、教育も十分でなく、老練な政治家ではあったが、法律には素人でしかない。法律としての完成度を求めるのが無理というものだ。

これに対して日本国憲法は見事な体系性を持っており、法律条文としてははるかに完成度の高いものだ。これが、軍人の集まりに過ぎないGHQから出された草案に基づいているとは驚くしかない。民生局長ホイットニー准将は、フィリピンでゲリラ部隊を指揮して日本軍と戦った歴戦の勇士であるが、兵隊あがりだ。二等兵から准将にまで昇る経歴もすごいが、実は夜間大学に通って弁護士資格を得ているし、法学博士の学位まである法律の専門家なのだ。次長であるケーディス大佐は、ヨーロッパ戦線から東京にまわされたのだが、その理由は彼がハーバード大学出身の優秀な法学者だったからだ。当然彼らの配下には多数の法律専門家がいた。つまり、GHQ民生局は最初から新たな日本国憲法を目指して準備された法学者組織だったのだ。米軍の動員体制は、本当の意味での総動員で、日本とは歴然とした違いがある。日本では、士官学校出の将校だけが威張り、法学者などは招集しても二等兵にしかしなかった。

第一次世界大戦は純然たる帝国主義戦争、すなわち、発達した資本主義国が植民地の利権を争って互いに争う戦争であり、戦勝国が戦敗国を裁いて、領土や利権あるいは賠償金をせしめる戦争だった。しかし、第二次世界大戦は帝国主義戦争の側面も残してはいるが、露骨な暴力主義であるファシズム勢力と民主主義勢力との闘いという側面も強かった。ソ連は第二次世界大戦を帝国主義戦争と見て、自国に侵攻したドイツ軍とは戦うが、連合国に加担はしないという冷ややかな姿勢を持っていたが、終盤では英米の説得で、この第二の側面に同意して連合国として参戦した。第二次世界大戦の終末期には、これを最後の世界戦争にしようとする平和志向を色濃く打ち出すことにもなった。カイロ選言、ポツダム宣言の頃には、戦勝国に利権の拡大や賠償金の取立てを放棄させ、原則的に領土の拡張も認めず、既存の植民地も独立させるべきであるとの方針を持つことになった。こういった連合国の理想主義的な考え方の協同が発展して国際連合が生み出された。

日本占領の根拠はポツダム宣言にある。連合国が合意して、日本に「降伏の機会を与える」として条件を示したのだ。「日本を世界征服へと導いた勢力を除去」「占領の受け入れ」「戦犯の処罰」「民主主義」「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」「非軍備」「軍隊の無条件降伏」を条件とし、「これについては譲歩しない。執行の遅れは認めない」と言明している。日本はこれ以上の原子爆弾を含む爆撃や、ソ連の日本進攻を避けるために、ポツダム宣言を受諾するから降伏を認めてくれと頼んだ。降伏を認めるとは、現政府を日本を代表する交渉の相手方として認めるということだ。ヒットラーもムッソリーニも降伏せず、政権自体が崩壊するまで戦ったのだが、天皇ヒロヒトは降伏により生き延びる道を選んだ。

降伏を認められたのだから、その代わりにポツダム宣言の内容を忠実に実行する義務が生じたのだが、これまでの日本の国際対応からみて、到底そんな事は考えられない。法学者を動員して、日本国憲法の制定を用意して置くべきだと考えただろう。だからGHQはそういった陣容になっている。案の定、日本政府が作った松本試案は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのを「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」に変える程度のもので、ポツダム宣言とは程遠いものだった。民間では新しい憲法を目指していろんな案が出され、日本共産党なども憲法草案を提示していたが、松本試案には全く反映されていない。軍人は除外されたが、帝国政府の官僚をそのまま残した政府に起草させるのは所詮無理なことだろう。

GHQからいわゆるマッカーサー草案を示して議論の土台を作った。GHQから出されたとは言え、憲法草案の中身は優れた法学者により、周到に検討されたものだった。思想的底流としてはフランスの人権宣言やアメリカの独立宣言に基づいており、GHQの法学者たちは一種の理想的憲法の作成といった気持ちで起草に取り組んだように思われる。各国の憲法や、民間での草案議論などもよく研究しており、天皇崇拝が染み付いた当事の日本国民の状況も勘案して第一条で天皇を「日本国民統合の象徴」などとする工夫も凝らしている。

平和に関する条項である第9条も、パリ不戦条約の第一条「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル 」を元にした文言だ。この条約には1928年に日本も加盟したのだから、満蒙問題の解決を戦争に求めた日本は明らかな条約違反だったことになる。この条約は今でも生きており、国際平和の原則となっている。さすがに日本側でも戦争に対する反省は強く、一月二四日に幣原喜重郎首相がマッカーサー元帥と会談した時に戦争の放棄を新憲法に入れることを日本側から提案した。

このように日本国憲法の成立には、多くのことが取り入れられ、ある意味で世界の法学的英知を結集したものだったのではないだろうか。日本国憲法の今日でも輝きを失わない格調の高さはこのことによるものだろう。

草案は急速にまとめられて行き、国会で何箇所かの修正をして、形式的には帝国憲法の改正として制定された。新しい憲法は国民の圧倒的支持を受け、国会でもほぼ全会一致で採択された。日本共産党が改憲の主旨をもっと徹底させろという主張から反対の投票をしたが、新憲法の施行には賛成だったので、実質的には全会一致である。簡単に過半数で改正すべきでない重みがある制定だったことがわかる。

古代日本の様子 [歴史への旅・古代]

日本が初めて歴史に登場したのは、1世紀に書かれた漢書地理誌である。まだ弥生時代であり、稲作も始まってはいたが食物採集の補助程度で、餓死は日常であり、天候が良ければ人口が増え、悪ければ減るという時代だ。働かないで暮らす大王や大勢の役人を養う生産力はないから、統一国家とかは考えられもしない。せいぜいの所いくつかの邑を支配する酋長がいたにすぎない。それでも、中には朝鮮半島に使いする酋長がいたので、「楽浪海中に倭人あり、100余国を為す」と書かれている。

2世紀の後漢書になると「永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う」とあり、倭国王を自称する者も出てきたが、支配領域は小さなものだっただろう。やはり弥生時代で、国家組織が生まれていたとは考えられない。貢ぎものとしては、奴隷以外になかった。「帥升」が歴史上最初の日本人の名前だ。そのほかにも30国が使いを出していた。

3世紀には魏志倭人伝がある。魏志倭人伝といえば、邪馬台国までの経路・距離が専ら論議されるが、それだけでなく、日本の風俗もいろいろと記述している。正始元年(240年)、魏が北朝鮮に置いた出先機関である帯方郡の太守は、梯儁(ていしゅん)を派遣して倭奴に詔書・印綬をさずけた。伝聞ではなく、梯儁自身の見聞を記述したものと見ることができるからかなり信頼が置けるものだ。

帯方郡から見て、日本列島の有力な国の一つが邪馬台国であった。女王卑弥呼が支配し、一大卒を派遣して巡察行政をさせていたことがわかる。温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。とあり、海南島と似た気候のように書いてあるが、多分朝鮮経由で来ると日本を非常に暖かいと感じたのだろう。海流の関係で朝鮮は日本よりかなり寒い。身分制が整い、上下の別がはっきりしていた。犯罪率は低く、刑罰は奴隷化と死刑と厳しかった。海に潜って魚や貝を採るのが得意で、大人も子どもも、みんな顔に刺青をしており、刺青の仕方は色々で身分階級で異なる。

一夫多妻制で妻が3,4人いるが、風俗は淫らではない。冠はかぶらず鉢巻をする。服は縫わず結ぶだけの単衣だというから、「神代」の服装とは大分イメージが異なる。婦人は真ん中に穴を開けてかぶる貫頭衣、化粧品として朱丹(赤い顔料)をその身体に塗っている。まだ靴はなく、裸足で歩いていた。文字はなく、縄の結び目などで記録していた。3世紀は日本書紀で言えば神効皇后の時代だが、もし皇后・息長足姫が実在したならば、顔に刺青をして、赤い顔料を塗りたくり、布に穴を開けて被った裸足のお姉さんということになる。全体としては、かなり未開な様子であるが、そのとおりだったにちがいない。

こういった生活の様子は日本の記録には現れない。当事者は、当たり前のことを書く必要性を持たないのだが外国人は珍しく感じる。明治の初期の様子を書いたイザベラ・バードは、日本人の女性が歯を黒く染めた奇怪な化粧をしていることや、乳房をあらわにして街を歩いていることなどを書いているがこれは事実だ。ついでに証言しておくと、昭和30年代でも。腰巻だけで夕涼みをしている婆さんをよく見かけた。

衣類は主として麻だったようで、紵麻(からむし)で麻布を作っていると書いてある。このころすでに養蚕が行われており、絹織物を作っているとも書いてある。牛、馬、羊などはおらず、牧畜はやっていない。もちろん兵隊はおり、矛・楯・木弓をもちいていた。木弓は下がみじかく、上が長くなっているという後代の和弓と同じものだ。矢は竹製で、矢じりは骨とか鉄だったとあるから、鉄器も使用されていたことがわかる。

外交関係はかなり活発で、記録も具体的だ。卑弥呼が魏に使いを出したのは、景初二(三)年だが、そのときの正使は「難升米(なしめ)」副使は「都市牛利(としごり)」と名前も記録されている。倭からの貢物は、男生口(どれい)四人、女生口六人、班布二匹二丈であるからたいしたものではない。布一匹は大体2人分の着物を作るだけの分量だ。まだ生産力も低く、これといった特産物も無かったのだろう。これに対して魏からの返礼は凄い。

絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹
絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張
絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹
紺青(紺青色の織物)五十匹

これに加えて、遠路はるばる来たことを讃えて特別プレゼントを与えている。

紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹
細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張
白絹(もようのない白い絹織物)五十匹
金八両
五尺刀二口
銅鏡百枚
真珠五十斤
鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)五十斤

おそらく当時の倭国の国家予算を超えるようなものだっただろう。臣下の礼を取り、朝貢したくなるのも尤もなことだ。正始四年にも使いは来ており、このときは「伊声耆(いせいき)」「掖邪狗(ややこ)」ら8人だった

朝貢したのは、邪馬台国だけではない。一応は邪馬台国に従属していたかも知れないが、狗奴国などは、独自の外交を行っている。邪馬台国は日本にいくつもあった国の一つに過ぎなかった。狗奴国の男王「卑弥弓呼」も帯方郡に使者を送り、正始八年の太守報告報告には、「載斯(さし)」・「烏越(あお)」という使者同士が互いに争ったことが書いてある。

帯方郡としては、「張政」を日本に送り、「難升米」を説得して調停しようとした。しかし、張政が日本に着いた時には、卑弥呼は亡くなっており、盛大な葬儀が行われていた。100人もの女官を殉死させて、径百余歩の墓を作った。男王が立ったが諸侯の納得が得られず、壱与(13歳)に卑弥呼の後を継がせてやっと決着がついた。「張政」の帰路に「掖邪狗」ら20人が壱与の使いとして付いて来た。このときの具物は

男女生口三十人
白珠五千(枚) 真珠?
孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚
異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹

で、少し生産力が高まっているとも見受けられる。「卑弥呼」「卑弥弓呼」「難升米」「都市牛利」「載斯」「烏越」「伊声耆」「掖邪狗」と8人もの具体的な人名が出てくるし、中国との交流もなかなか盛んで具体的な事実も残されている。しかし、日本の記録には、一切の片鱗が認められない。この時代と日本書紀の時代とには、明らかな断絶がある。

倭の様子を記述した文章が7世紀の隋書でも見られる。魏志を下敷きにしているから、同じような記述もあるのだが、仔細に見ると、倭国の状況が変わっていることがわかる。遣隋使の答礼使として来日した裴世淸の報告によるものだ。7世紀末には、漆塗りの沓が生まれていた。仏教が普及していることも書かれている。80戸毎に「伊尼翼(いなき)」を置き、10の伊尼翼が「軍尼(くに)」になるといった行政機構も生まれている。服装も男は筒袖の上着と袴のようなものを着ており、衣服は縫われるようになった。鉢巻はやめて貴人は金銀の冠をするようになった。女性は縁取りのついたスカート「裳」を着ている。酒を飲んだり博打をしたりする者も観察しているし、盟神探湯(くがたち)といった裁判風習も見ている。中国の歴史書は、こういった変化も記録しているのだ。

中国の歴史書によれば古代日本の様子が見えるのだが、これは日本書紀が描く日本の姿とはかなり異なる。日本書紀では、すでに4世紀ころから、立派な着物を着て、威風堂々とした政権が存在したことになっていろのだ。日本書紀を読む場合には、粉飾に注意しなければならない。
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